第三章・小波に揺れた心




 ランボがリボーンの邸宅で生活を始めて三日が過ぎた。
 ランボはこの三日間のことを思い出し、「どうして上手くいかないんだろう……」と重い溜息を吐く。
 この三日間は、ランボにとってもリボーンにとっても悲惨なものだったのだ。
 まず、ランボは人間の世界というものを知らなさ過ぎた。
 ランボとしては、今まで人間の落し物をコレクションしたり、海から陸を眺めたり、海上を運航する船を見学したりしていたので、ある程度は人間について知識があると思っていたが、それらの知識はまったく役に立たなかった。それどころか、人間に混じって暮らす上で関係無いものばかりだったのである。
 まず、衣食住に関する概念がランボは薄かった。
 食事面では、料理を作るという行為自体をランボは知らなかったくらいなのだ。料理を知らないという事は食事マナーを知らないという事であり、フォークの使い方すら知らなかったランボはリボーンによって徹底的に食事マナーを叩き込まれたのである。
 それ以外にも、ランボは生活の基本知識や社会知識というものがほとんど無く、あらゆる面においてリボーンを怒らせた。掃除をすれば物を破壊するのは当たり前で、買い出しに行けば交通ルールを知らないランボは車に突っ込んでいく有り様だったのだ。
 そもそも海での生活は衣食住に捕らわれない自由なものだったのである。一人でいる事が当たり前だったランボは、多くの人間が生活する陸上にはルールがあることも知らなかった。
 だが、ルールといっても明確に突きつけられる事はないのだ。人間世界におけるルールとは一般的に『常識』と呼ばれる曖昧なものであり、それは幼い子供が大人へと成長していく中で身に着けていくものなのである。又、人それぞれに常識は異なる場合もあり、分かりやすく言えば大多数が支持するルールこそが『常識』と呼ばれるものになるのだ。
 ランボは人間世界の常識に打ちのめされた気分だった。
 陸に上がる前は、まさか人間世界がこんなに複雑な世界だとは思わなかったのである。
 リボーンと暮らすようになって三日が経過したが、リボーンがランボに対して怒らなかった日など無いだろう。
 そして今、ランボは物を壊さないように細心の注意を払いながら掃除をしていた。
 本当ならランボが掃除をする事は禁止されているが、そうもいっていられない事態をランボは引き起こしてしまったのである。
 それは、今日の朝早くに起こしてしまった。
 今朝、早く目覚めたランボは、初めての朝食作りに挑戦しようとしたのである。
 綱吉の提案によってリボーンの邸宅で住む事を許されたランボは、生活を開始してから一度も働いたことはなかった。ここでの働くとは、料理や掃除など家事全般を指すものだ。
 最初はリボーンもさせようとしたのだが、ランボの酷い世間知らずぶりに一日目で諦めたのである。
 しかし、この三日間でランボは人間世界で生活するには労働というものが必要なのだと知った。リボーンも仕事というものに行っているらしく、どんな仕事か詳しく知らないが危険を伴うものらしい。
 それを知ったランボは、それならばせめて料理くらいはしてみようと思ったのである。
 今まで出された食事内容を見ていたランボは、朝食くらいなら自分にも作れるかもしれないと思ったのだ。
 そういった思いから、ランボはリボーンが起きるよりも早くキッチンに立ち、トーストとスープという簡単な食事を作ろうとした。
 だが、例え簡単なメニューであったとしても、包丁すら握った事がないランボが作れる筈がなかったのだ。
 そしてランボがキッチンに入ってから三十分後、何が起きたのかというと……スプリンクラーの作動だった。
 料理の作り方だけならともかく、キッチンの使用方法もあまり把握していなかったランボは、食材を焦がすというよりも燃やすという惨事をやってのけた。そしてキッチンに火が上がれば、リボーンの邸宅に設置された高性能のスプリンクラーが作動するのは当然だったのだ。
 朝からキッチンにシャワーを降らせたランボがリボーンに怒鳴られるのは当たり前である。リボーンはキッチンの惨状に怒ると、「俺が帰るまでに拭くくらいはしておけ」とランボに雑巾をぶつけて仕事へ行ったのだ。
 その為、ランボは自己嫌悪に陥りながらも朝から水浸しになったキッチンを拭いていた。
「人間の世界って難しい……」
 ここにきて人間世界にはたくさんのルールがある事を知ったが、それらは人魚のランボにとって直ぐに覚えられる事ではない。
 しかも人間世界の常識では、人魚は空想上の生物とされていた。そんな常識を持つ人間に「オレは人魚だから」という言い訳など通用する筈がなく、ランボは呆れを通り越して真剣に心配されるほど知識が無い人間として扱われていたのだ。
「……海に帰りたいな」
 ランボはぽつりと呟いていた。
 人間になってまだ三日しか経過していないが、ランボは人間としての生活に挫折を感じていたのである。
「確かにオレが悪かったけど、リボーンだってあんなに怒る事ないのに……」
 そして何より、リボーンが予想していた以上に怖かった。
 陸に上がる前から「優しい雰囲気の人ではないな」と分かっていたが、この三日間の生活で完全に優しいどころの話しではないと思ったのだ。
 リボーンはランボに対して素っ気無く、眼中にすら入れてもらえていないのではないかとよく思う。無視をされる事は当たり前で、話しかけてくれる内容といえば罵りや憤りの言葉ばかりなのである。
 ランボは今朝の事を思い出し、「……が・ま・ん」と我慢しようとしながらも涙ぐんでしまう。
 今朝、少しは頑張ってみようとリボーンの為にキッチンに立ったというのに、リボーンからは罵りの言葉しか口にしてもらえず、挙句に雑巾を顔に投げられた。確かに失敗したランボが悪いが、それでも言い方というものがあると思うのだ。
 だが、ランボは落ち込みそうになりながらも「まだ三日しか経ってないから」と自分を奮い立たせた。
 そう、ランボは海を離れてまだ三日しか経過していないのだ。
 三日しか経っていないのに挫折して海へ帰るなんて、まるで人間の世界に負けてしまったようで嫌だった。
 そして人間の世界は辛い事が多いが、今まで海で過ごしてきたランボにとって目新しい事ばかりなのだ。海の世界では決して知ることが出来ない人間の世界をもっと知りたいと思っている。
 だがそれ以上に、せっかく一緒にいるのだから少しくらいリボーンの役に立ちたいと思っていた。
 リボーンはランボが陸へ踏み出す切っ掛けになった人で、ずっと会いたいと思っていた人なのである。会いたかったからといって何かしたい訳ではなかったが、会う事を目的の一つにしていたのだ。
 リボーンに会った後は何をするかも考えていなかった。そんなランボが、リボーンと再会でき、一緒に暮らすことが出来るのは幸運なのだろう。そもそも人間の世界で生きていくには金銭などが必要になってくるのだが、ランボはそれを持っていなかったのだから。
 人間の世界で暮らし始めてまだ三日しか経っていないが、この世界で生活する困難さを知った今、住む場所を提供してくれているリボーンには感謝していた。
 でもだからこそ、リボーンの役に立ちたいと思っているし、喜んで欲しいと思うのだ。
 ランボは掃除を終えると、「できた!」と何とか片付いたキッチンを見回す。
 掃除の仕方は不十分かもしれないが、取り敢えず床やキッチン台周辺の水気は拭き取り、掃除を終えることができた。
 こうして掃除を終えたランボは、「よしっ」と気合いを入れるとキッチンに立ち向かう。
 そう、朝食は失敗してしまったが、夕食こそは喜んでもらうのだ。
 それにランボには秘密兵器がある。
 ランボはその秘密兵器を思い出してニヤリと笑うと、自分の部屋になっている客室に戻ってある物を引っ張り出した。
 そのある物とは、『初心者でも簡単料理レシピ集』と題された料理レシピ本だ。このレシピ本は挿絵がたくさん入っており、あまり字が読めないランボも何とか解読できる。
 この本は綱吉が用意してくれたものだった。リボーンの元に身を寄せてからというもの、綱吉は何かとランボに便宜を図ってくれるのだ。
 ランボは綱吉に「せめて料理くらいは出来るようになりたい」と相談し、この本を送ってもらったのである。
 ランボはレシピ内容の半分ほども理解出来ていないが、それでも充分だった。レシピ本があるだけで、何とか料理を形に出来ると思ったのだ。





「わっ、ちょっと焦げてる……!」
 ランボはフライパンで牛肉を炒めていたが、その香ばしい匂いの中に独特の焦げた匂いを嗅いで慌てて火を止めた。
 ランボはヤバイと思いつつ、そっと牛肉を引っくり返して焦げ目を確認する。
「……大丈夫だよね、これくらいなら平気だよね」
 牛肉はフライパンと接触していた部分が黒く焦げ、焦げカスまでへばり付いていた。だが、ランボは「大丈夫。きっと大丈夫」と自分を励ますと牛肉を皿に移す。
 もちろん焦げた部分を隠すように裏面にしたランボは、適当に選んだオリーブソースをかけて肉料理を仕上げた。
 そして他の料理もテーブルに運び、ランボは満足気な表情になる。
「オレ、頑張ったよね」
 これが自己満足だという事は分かっている。でも、初心者にしては頑張ったと思うのだ。
 ランボが夕食に用意したのは、肉料理の他にサラダとスープだった。
 サラダといっても、それは野菜を千切って皿に入れ、スープは味付けしたお湯にジャガイモやニンジンを茹でただけのものだ。はっきりいって、それは料理と呼ぶにはあまりに稚拙なものだった。千切った野菜は乱雑で、スープに入れたジャガイモなども形は不揃いで恐らく半生のものもあるだろう。
 だがリボーンの為にと頑張り、なんとか料理を仕上げたのだ。
 ランボが今の時刻を確かめると、時計の針は二十一時を指していた。昼過ぎから夕食の準備を始めて今頃出来上がるのは時間が掛かりすぎだが、この時間はリボーンの帰宅時間なので丁度良いといえば丁度良いだろう。
 ランボは料理を前にし、ワクワクした気持ちでリボーンの帰宅を待った。
 朝は朝食の準備をして怒らせてしまったが、夕食ではスプリンクラーを作動させずに料理が出来たのだ。しかも三品も並べる事が出来たのだから、きっとリボーンは喜んでくれるだろう。
 リボーンにはいつも怒られてばかりで怖いという印象が強いが、だからこそリボーンが喜ぶ姿を想像するとランボは嬉しくなってしまう。
「早く帰ってこないかな」
 ランボは小さな笑みを浮かべ、時計を見ながら鼻歌をうたう。ワクワクと気持ちが高揚し、とても待ち遠しい気分なのだ。
 こうして時間が過ぎていき、玄関扉の鍵がカチャリと開けられる音が響いた。
 その音にピクリと反応したランボは、「帰ってきた!」とリボーンを出迎える為に玄関まで駆け出す。
「おかえり!」
 ランボが笑顔で出迎えると、仕事から帰ってきたリボーンは少し驚いたように目を瞬いた。
 ランボと同居生活が始まってから、これほど機嫌良くランボがリボーンを出迎えたことはなかったのだ。今までランボは、人間世界では常識である出迎えという行為すら知らなかったのである。
 しかし今夜は初めて夕食を作ったという事もあって、リボーンが帰ってくるのが待ち遠しかったのだ。
 リボーンを出迎えたランボはテーブルに並べた料理を早く見て欲しくて、帰宅の片付けもおざなりに「早く早く」とリボーンをリビングに急かす。
 そんなランボの様子にリボーンは眉を顰めたが、ランボは気にする事なくリビングへ足を進めた。
 そして、さあ見て! とばかりにリビングの扉を勢い良く開ける。
「オレが作ったんだ! 今度はキッチンにシャワーを降らせなかったし、なかなか頑張っただろ?」
 ランボは胸を張ってそう言った。
 テーブルに並べられた料理を見つめるランボの瞳はキラキラしており、褒めてくれと言わんばかりに料理の紹介をしたのだ。
 しかし。
「――――余計な事はするなと言っただろ」
 しかしリボーンから紡がれた言葉は、ランボが予想もしていなかった言葉だった。
「……え?」
 その言葉を聞き間違いだと思いたいランボは、恐る恐るリボーンを振り返る。
 だがリボーンを見たランボは、言葉が聞き間違いではなかった事を思い知るだけだった。
 料理を目にしたリボーンは、酷く呆れた表情をしていたのだ。
 その表情を目にし、ランボは言葉が出てこない。言葉を発したいのに、文句を言ってやりたいのに、胸が痛くて言葉を発することが出来なかった。
 言葉すら出てこないランボは愕然とした思いでリボーンを見つめたが、リボーンはそんなランボに構わず、テーブルに近づきスープの中身に眉を顰めた。
「こんなの食えたもんじゃねぇぞ?」
 そう言ったリボーンの言葉には嘲りが含まれていた。
 リボーンの嘲りに、ランボの翡翠色の瞳が涙で滲む。
 この料理が酷い出来だという事も、とても稚拙なものだという事も、ランボは最初から分かっていた。お世辞にも美味しそうな見た目ではないし、味だってきっと不味いだろう。そんな事はランボにだって分かっている。
 でも、もっと違う言葉を貰えると思っていたのは贅沢だったのだろうか。少しでも喜んでもらえると思っていたのは高望みだったのだろうか。
 少しでもリボーンの役に立ちたかった。少しでも喜んでもらいたかった。それだけなのに、それが叶わない。どんなに頑張っても、呆れさせるばかりで意味が無い。
 ランボは、リボーンに馬鹿にされて悔しかった。嘲られて悲しかった。
 悲しみとは苦しいもので、ランボは拳を強く握り締める。こうでもしなければ、我侭を口にする子供のように癇癪を起こしてしまいそうだったのだ。しかし、沸々と湧き上がる感情を抑えるなど出来ない。
 今まで一人きりで育ったランボは、他人と感情を行き来させた経験もほとんどなく、他人によって受ける影響を制御する術を持たないのだ。だから抱く感情は純然であるが、急激に膨れるそれを抑える事は出来なかった。
 ランボは唇を噛み締め、リボーンを睨みつける。
「……あんたがこんな人だとは思わなかった……っ」
 ランボは涙を耐え、吐き捨てるようにそう言った。
 これが言い掛かりの言葉だとランボは分かっている。これは自分の思い通りにいかない事への八つ当たりで、予想と違っていた事への憤りだ。
 でもリボーンだからこそ、リボーンから紡がれた言葉だからこそ、余計に我慢なんて出来ない。
 リボーンはランボが人間の世界に踏み出す切っ掛けになった人であり、仮にも目的にまでした人だからこそ、リボーンだけは受け入れて欲しいと願ってしまうのだ。大きな優しさなど最初から期待していなかったが、少しくらいは……と願ってしまうのだ。
「リボーンのアホ! あんたは怒ってばっかりで怖いんだよ、意地悪なんだよ、性格悪いんだよ、死んじゃえ!!」
 ランボは稚拙な暴言を並べ、その場から駆け出した。
 これ以上、リボーンの前にいる事が辛かった。
 リボーンに対して怒りを抱く事も罵倒する事も間違っていると分かっているのに、それをしてしまいそうだったのだ。
 だからランボは勢いのままリボーンの前から逃げ出し、邸宅から飛び出したのだった。





 突然飛び出していったランボを、リボーンは何の感慨も無く見送った。
 自分に向けられた暴言には腹が立ったが、出て行ってくれるのは歓迎だったのである。
 そもそもこの同居はリボーンが納得しないうちに勝手に決められたもので、最初から乗り気ではなかったのだ。むしろ、余りに世間知らずで社会知識の乏しいランボはお荷物のようなもので、同居が始まってから苛立つことはあっても良かったと思う事は一度も無かった。
 料理を貶されたランボが怒る気持ちも分からないではないが、やはり迷惑なものは迷惑なのだ。
 そんなランボが出て行ってくれるのは、リボーンにとって好都合でしかなかったのである。
 恐らくランボは戻らないだろう。家主である自分にあれだけの暴言を吐き、迷惑をかけるだけ掛けて出て行ったのだ。これで何事も無かったように戻って来たなら、見上げた神経の図太さだろう。
 リボーンはキッチンテーブルの椅子にボルサリーノと上着を引っ掛け、テーブルに並べられた料理に目を据わらせる。
「出て行くなら、せめて片付けくらいしていって欲しいもんだな」
 吐き捨てるようにそう言ったリボーンは、スープ鍋を持ってキッチンの流し台に立った。
 そう、今から具材もスープも捨てるのだ。勿体無い事かもしれないが、お世辞にも食べれた物ではないのである。
 こうしてリボーンが苛立ちながらもスープを捨てようとした時、不意に、スーツのポケットに入れていた携帯の着信音が鳴り響いた。
 着信にリボーンは舌打ちすると、取り敢えずスープ鍋を置いて携帯に出る。
 着信音は綱吉からのもので、綱吉は仕事の関係上最優先で出なければならない相手なのだ。
「何の用件だ、急ぎの仕事は無かった筈だぞ」
『仕事の話じゃないよ。ちょっと聞きたい事があって電話したんだ』
「聞きたい事?」
 綱吉の言葉にリボーンは眉を顰める。仕事のことなども含め、リボーンには話さなければならない事などなかった筈なのである。
 リボーンは不審気に「何のことだ?」と聞き返すが、綱吉は普段と変わった様子はない。
『あれ? リボーン、なんか機嫌悪い?』
「何の事だ、別に普通だろう。それより用件を話せ」
 リボーンは普通だと答えながらも、ボンゴレの超直感は厄介だと思った。着信が掛かるまで確かに苛立っていたが、電話口ではそれを出したつもりはなかったのだ。
 しかし超直感で気付きながらも、綱吉は『リボーンは気紛れだからね』と特に気にした様子もなく話しを続ける。
『ところでランボはいる?』
「さあな、その辺にいるんじゃないのか?」
 その辺といっても家の中ではないが、リボーンはそこまで話す必要は無いだろうと黙っていた。
「アホ牛がどうかしたのか?」
『いやね、ランボが料理のレシピ本が欲しいっていうから送ったんだよ。で、そろそろ料理を作ってみたのかな? って思って』
 この綱吉の言葉を聞いて、リボーンは頭が痛くなる思いだった。
 突然ランボが料理を作り出して何事だ? と思ったが、諸悪の根源は綱吉だったのだ。
 余計な事をしやがって、とリボーンは舌打ちしたくなる。
『ランボって可愛いよね。レシピ本が欲しいって言ってきたのも、リボーンの役に立ちたいからなんだって。まるでリボーンに褒めて欲しがる子供みたいだったよ』
 綱吉は楽しげな口調でそう言ったが、ランボの現状は役立つどころか迷惑ばかり掛け、褒める所を探す方が難しいくらいだ。
 リボーンはそうした現状を思い出し、電話の向こうでのん気に『最初はどうなるかと思ったけど、結構上手くやってるんじゃない?』などと言う綱吉を今直ぐ殴り飛ばしたい気分だった。ランボを預かってからというもの、綱吉はリボーンと顔を合わせる度にランボの事を聞いてくるのだ。
 綱吉がランボの何が気に入ったのか知らないが、ランボに対して過保護になっているところがあり、リボーンはそれに嫌気が差している。だが。
『ところでランボの手料理は食べた?』
 嫌気が差しながらも、今からその手料理を捨てるところだ、という皮肉を何故か言えなかった。
「…………今から食べるところだ。もういいだろ、切るぞ?」
 リボーンは少し間を置いてそう答えると、返事も聞かず着信を切った。
 強引とはいえ話しを切り上げたというのに再度着信が鳴り響く。しかしリボーンが着信に出る事はなく、それを無視して電源を切ってしまった。どうせ綱吉からの電話であり、その内容はリボーンを苛立たせるものなのだ。
 リボーンは、綱吉のランボに対する過保護振りに頭が痛くなるが、片付け作業の続きをしなければとスープ鍋に視線を向ける。
 リボーンはそれを捨てようとしたが、捨てる寸前で手が止まってしまった。
 不意に、視界の端に見慣れぬ書籍が映ったのだ。
 キッチンカウンターに置かれたままのそれは初心者用レシピ集の本で、これが綱吉がランボに送ったという本なのだろう。
 それを目にしたリボーンはスープ鍋を置き、レシピを確認する。
 そしてテーブルに戻るとレシピと料理を見比べた。
「……レシピの意味無しだな」
 本に掲載されている料理の写真とテーブルに並べられている料理はまったく別物に見える。これがレシピを見ながら作った料理だというのだから驚きだ。
 リボーンは料理と一緒に並んでいたフォークとナイフを手に取ると、肉を丁寧に切り分け、それを一つ口にする。
「不味い。しかも焦げを隠してやがった……」
 食べた瞬間、リボーンは眉を顰めて苦い表情になった。
 この肉料理は不味いだけでなく、片側が真っ黒に焦げていたのだ。しかも焦げ目を隠そうとする姑息さに溜息しか出ない。
 だが、良い所だけを見てもらおうとした小賢しさは、リボーンにとって他愛ないイタズラのようなものである。
 リボーンは帰宅した時に出迎えてきたランボの笑顔と、先ほどの綱吉の言葉を思い出す。
 リボーンが帰宅すると、ランボはとても嬉しそうに出迎えてきた。今思えばリボーンをリビングへ急かしたのも、自分の作った料理を早く見て欲しかったからだろう。そう、これはランボにとって自信作だった。
 そして何より、先ほど綱吉が言っていた事から察するに、ランボはリボーンに自信作を褒められたかったのだ。
 リボーンはそこまで思うと、テーブルの料理にもう一度視線を向けた。
 テーブルに並べられた料理は、料理と名乗るにはおこがましい物である。しかし、朝食時にスプリンクラーを作動させた事を思うと、夕食はかなり頑張って作ったと分かる物だった。
 リボーンは舌打ちし、面倒臭げな表情になる。
 だが面倒だと思いながらも、ボルサリーノを被って諦めたように玄関へと向かったのだった。






「うぅ……、リボーンのアホ……」
 リボーンの邸宅を飛び出したランボは、人気の無い夜道をとぼとぼと歩いていた。
 街の喧騒が遠い郊外に立地したリボーンの邸宅は、その周囲に他の民家は無い。リボーンの邸宅は一人で住むには充分過ぎるくらいの広さを持っているが、それよりも重視されていたのは土地の広さだったのだ。この郊外の周囲一帯は全てリボーンの土地であり、邸宅の周りは手入れの行き届いた草木に囲まれているだけで、隣家は屋根すら見えないほど離れているのである。
 広大な私有地は夜になると街灯の明かりしかなく、静寂と闇夜に包まれたそこは心細さを煽る。
 そんな夜道を歩き続け、ランボは人と車が行き交う街に出た。
 いつの間にかリボーンの私有地を抜けていたのだ。
 街は夜だというのにネオンの明かりに照らされ、それは夜の闇を拒絶するかのような輝きを見せている。そう、人間の世界は夜だというのに完全な闇に包まれることはない。夜になれば人工の光が街を照らし、その中を人々が当たり前のように行き交っているのだ。
 ランボは行き交う人々の間を擦り抜けるようにして歩き続けた。
 空を見上げれば月があり、星がある。しかしネオンに包まれた地上から星を見ることは難しい。
 海で育ったランボは一切の光が届かぬ深海の闇を知っているが、地上の闇夜は海とは違った種類の闇だと思った。光の届かぬ海底の方が暗いのに、地上の闇は一人でいると得も言えぬ心細さに襲われる。地上には同じ種族である人間がたくさんいて、人工の光が灯されているのに、まるで世界に独りきりになったような錯覚を受けるのだ。
「リボーンの馬鹿……、鬼、人でなし……」
 ランボはネオンの中を歩きながらリボーンへの暴言を並べる。
 だが暴言を並べながらも、本当は分かっていた。
 ランボは勢いで飛び出してしまったが、本当に非があるのは自分の方だと分かっている。
 何もするなと言われていたのに、リボーンに喜んでほしかったとはいえ勝手に料理を作った。せめて上手く料理を作れていれば良かったのに、ランボが作ったものは明らかに失敗作だったのだ。
 例えどれだけ頑張って作ったものだったとしても、失敗していたなら意味が無いだろう。食べてもらえなければ、無駄になってしまうのだから。
 でも料理を作っている時、ランボは楽しかったのを覚えている。
 朝食の失敗を怒られたことを引き摺ってはいたが、今度こそ! という気持ちが強くて張り切って取り掛かった。
 ランボはこの時、頑張った自分の姿を見たリボーンの反応を期待していた。料理が上手くいけば褒めてくれるかもしれない。否、成功しなかったとしてもリボーンの為に頑張ろうとした姿を認めてくれるかもしれない。
 そう、ランボはリボーンにそれを期待したのだ。
 最初から大きな優しさなど求めていない。それは海岸で一方的にリボーンを見た時、リボーンが纏う雰囲気で察することができた。出会ってからも、怒られてばかりで怖いという印象ばかりが強くなった。それでも。
 それでもランボはリボーンに夢を見たのだ。きっと受け入れてくれると期待した。
 自分が陸へ上がる切っ掛けにまでなった人なのだから、そうであると勝手に思ってしまった。
 でも今なら分かる。それはランボの勝手な押し付けだったのだろう。
 自分の理想を勝手に押し付けていたのだ。
 だから、リボーンは悪くない。悪いのは、勝手な思いを抱き、勝手な行為をし、勝手に期待していたランボなのだ。
「……海に帰りたいな」
 ランボはネオンの中を歩きながら、ぽつりと漏らした。
 海へ帰りたい。
 ランボが生まれ、育ち、暮らした海へ帰りたい。
 そこは一人きりの世界だが、元々一人で生きてきたランボにとって苦は無いのである。否、一人だったからこそ傷付けられることもなく過ごせてきたのだ。
 他人と感情を交わすという経験が極端に少ないランボにとって、人間がたくさんいる世界はたくさんの感情が交差する場所だった。
 感情をぶつけられるのは怖い。それが怒りや悲しみなど、負の感情であれば尚更怖い。
 そして何より、自分の心に何かが影響するのが怖い。リボーンという存在は、この陸の世界でランボにとって一番大きな存在である。そのリボーンによって受ける影響が怖かった。
「海へ帰ろう……」
 言葉にすると、決心が固まっていく。
 今、海へ帰ることは陸の世界から逃げることのようにも思えるが、今更どうしようもないのだ。
 例え、陸で過ごす事を選んだとしても、もうリボーンの元には戻れない。かといってリボーン以外の所に行きたいとも思わない。それなら海へ帰った方が良いのだ。
 ランボは街の外を目指し、海がある方へ歩き出す。
 しばらく歩き続け、街の喧騒を抜けて郊外に出た。この郊外は雑木林に囲まれた場所で、この先に海が広がっているのである。
 こうしてランボは海を目指して何時間も歩き続ける。交通について知識が乏しい為、ランボの交通手段は徒歩しかないのだ。
 しかし、元々尾だった足は歩くことに慣れていない事もあり、数時間歩いただけでランボの足は痛みを訴えだす。
 ランボはその痛みに顔を顰めるが、後もう少しで海だから……と自分を慰めて歩き続けた。
 雑木林を歩き出して数時間が過ぎた頃、空を見上げれば夜空に仄かな光が射していた。いつの間にか夜明けの時刻になっていたのだ。
 夜の闇に包まれていた雑木林にも朝陽の光が差し込み、ランボを海へ促すように光が道を照らしだす。
 海へ向かっているランボの足は次第に速まり、足の痛みを忘れて駆け出していた。そして。
「海だ……っ」
 雑木林を抜けた先に広がったのは、ランボが帰りたいと願った海だった。
 雑木林と海の間には一本の道路と白い浜辺があるが、それを超えれば朝陽を反射してキラキラ輝く大海原が広がっている。朝陽に輝く海は、まるで宝石箱のように美しく幻想的な光に満ちていた。
 ランボは海を前にし、大きく息を吸い込む。
 潮の香りと、寄せては返す波の音。
 それらはランボにとって心地良いもので、帰ってきたのだと実感が込み上げてくる。
 ランボは懐かしいそれらに誘われるようにして、道路を横切ろうと一歩踏み出した。
 この道路を横切れば浜辺が広がり、その先には大海原が広がっているのだ。
 今のランボは目前の海しか見えておらず、波の音に急かされるようにして道路に飛び出したのである。
 だが、その時。
 ――――キキィッ!
 不意に、耳を劈くようなブレーキ音が響いた。
 その音にランボはハッとし、音がした方を振り向く。
「あ……っ」
 叫ぶことすら出来なかった。
 ランボが見た物は、凄まじいスピードで突っ込んでくる大型トラックだったのだ。
 それを目にしたランボは硬直する。
 逃げなければと思うのに硬直した身体は動かすことが出来ない。
 トラックから逃げる事が出来ず、轢かれる! とランボがそう思った瞬間。
 ふと、強い力でランボは抱き寄せられ、そのまま身体は道路を越えた浜辺へと突き飛ばされた。
 しかし突き飛ばされたといってもランボに衝撃は無い。ランボを抱き寄せた腕が衝撃から庇ってくれたのだ。
「どうして……」
 ランボは驚きの余り大きく目を見開き、自分を守ってくれた男を凝視する。
「リボーン……」
 そう、ランボを守ったのはリボーンだった。
 リボーンはトラックに轢かれそうになっていたランボを寸前で抱き寄せ、そのまま一緒に浜辺へ転がったのだ。
 人身事故を免れたトラックの運転手は「危ねぇだろ!」と怒鳴るが、スピードを落とさずにそのまま走っていく。しかし今のランボは、その怒鳴り声すらも耳に入っていなかった。
 ランボは呆然とした面持ちで、自分に覆い被さるリボーンを見つめる。
 ランボは勝手に邸宅を飛び出し、挙げ句に暴言までぶつけてきたのだ。
 それなのに、リボーンが目の前にいる。轢かれそうになった自分を助け、守ってくれた。ランボはそれが信じられない。
 こうして呆然とリボーンを凝視するランボだったが、リボーンはそれに目を細めるとランボの上から身体を退かした。
「ほら、お前も起きろ」
「あ、うん……」
 起きることを促され、ランボは身体を起こそうとする。
 だが死に直面した身体は小さく震えたままで、身体に力が入らなかった。
 そんなランボを見兼ね、リボーンは苦い表情をしながらも「ほら」と手を貸してくれる。
ランボは少し躊躇ったが、リボーンの手を取ってゆっくりと身体を起こした。
「どうして此処が分かったんだよ」
 ランボは戸惑いながらもそう訊いた。
 自分は行き先も告げずにリボーンの邸宅を飛び出したのだ。それなのに、リボーンが此処にいる事が信じ難い。
「お前が人魚人魚って煩かったからな」
「……それだけで此処にきてくれたの?」
「人魚といえば海だろう」
 リボーンは当たり前のような口調でそう言った。
 その言葉に、ランボは微かに目を見開く。
 今までランボは自分の言葉は聞き流されていると思っていたのだ。でも、こうして此処に来てくれたということは信じてくれたという事なのだろうか。
「それって、オレが人魚だって信じてくれたってこと?」
「信じるわけねぇだろ。お前の妄想に付き合っただけだ」
 リボーンは呆れたようにそう言うと、スーツについた砂埃を軽く払う。リボーンの仕立ての良いスーツは、ランボを助けた為に汚れてしまったのだ。
 だが、リボーンがそれでランボを責める事はない。しかし、最初にどうして? と訊いたランボの問いに答える様子も見せない。
 本当は訊きたい事がたくさんある。でも今は、
「ありがとう」
 ランボは小さく言葉を口にする。
「迎えに来てくれて、……ありがとう」
 今はそれだけをリボーンに伝えた。
 リボーンが迎えに来てくれたという事だけで、今は嬉しかった。その事実だけで胸が一杯になった。
 だから、今は「ありがとう」の言葉だけで良いと思えたのだ。
 こうして感謝するランボに、リボーンは「アホ牛が行方不明になるとツナが煩せぇんだ」と言い訳のように口にし、ランボを置いてさっさと歩いていってしまう。
 リボーンの態度も口調も素っ気無いものだったが、ランボは何故か嬉しくなって小さく笑ってしまった。
 今も先に歩いて行ってしまったリボーンの歩調はゆっくりで、まるでランボが後についてくるのを待っているようである。
 ランボは立ち上がり、海に背を向けた。陸を歩くリボーンを追い駆けたいと思ったのだ。
 リボーンを追い駆ける為に一歩を踏み出す。
 歩き出した足が痛かった。
 長時間の歩行で足は鉛のように重く、一歩進むたびに足に痛みが走ったのだ。
 この痛みは、直ぐ其処にある海に潜れば開放されるだろう。両足は尾に変化し、生まれ育った海に帰ることで痛みは癒される。
 しかし、ランボが選んだのはリボーンを追い駆ける事だった。
 背後に広がる海に「次の満月には帰るから」と気持ちを寄せながらも、この時、ランボが見つめていたのはリボーンだったのだ。






                                 同人に続く







人魚ものです。
始まりは明るいですが、実はシリアスです。
この後、ランボはいろいろ大変な目に遭ってますが、ラストはハッピーエンドです。





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