序章・エデンの東




【エデンの東】とは旧約聖書の時代、罪を犯した者達が向かった土地である。
 楽園から追放され、行き着いた先がエデンの東だったのだ。
 エデンの東は、不毛な土地だった。
 土は枯れ、空は灰色の雲に覆われ、光など届かない世界だった。




そう、エデンの東へ向かう道筋は、破滅への道でもあったのだ。





エデンの東



   第一章・月夜の真実





 夜空の月が雲に隠され、街は闇夜に包まれる。
 闇夜に包まれた街は静寂の中にあり、辺りには夜特有の澄んだ空気が満ちていた。
 街灯の無い路地裏はまるで黒い絵の具を溶かしたように暗く、そこでランボは一人佇んでいる。
 この路地裏は地面に石畳が敷き詰められ、壁はレンガ造りになっている。そのせいもあって、月が隠された今は一層夜の闇が増しているようだった。
「これは絶好の仕事日和だね」
 ランボは夜空を見上げ、苦笑混じりに呟いた。
 見上げた夜空に月は無い。月は千切れ雲にその姿を隠され、今の夜空にあるのは雲の合間から覗く星だけだった。
 闇夜に包まれた地上から見上げる星は宝石のように輝くが、それでも地上を照らすだけの強さはない。
 どれだけ星が空を埋め尽くしても、地上に光を導くことは出来ないのだ。
 ランボはレンガの壁に背を凭せ掛け、静かに夜空を見上げる。
 月を見ている訳ではなかった。星を見ている訳ではなかった。
 ただ此処に佇み、何の感慨も無く夜空を見上げているだけだった。
 眺める先にあるのは、夜という時間なら当然の光景であり、何か特別なものを感じるほどのものではないのだ。星が月に従うように輝き、月が当然のように夜空を支配する。ただそれだけの光景である。
 こうした静寂が満ちる中、不意に荒々しい足音が路地裏に響いた。
 その足音は逃げ惑っているかのように騒々しく、ランボの存在に気付かずに向かってきている。
「やれやれ、お客様のご登場かな?」
 ランボは小さな笑みとともにそう言うと、懐からゆっくりと銃を取り出した。
 月が雲に隠されている為、路地裏は数歩先までしか視界は利かない。
 だが、ランボは視界を覆う闇に構わず、自分へ向かってくる足音に真っ直ぐに銃口を向ける。
 足音から聞き取れる人数は三人。距離は五〇メートルといったところだろう。
 ランボは闇の中を見据え、気配を感じる方向に銃口を向ける。銃口に迷いは無く、荒々しい足音を響かせて逃げ惑う者達を捉えた。
 そして、静寂を裂くようにして響いたのは三発の銃声。
 銃声と同時に、闇に包まれた路地裏に断末魔の呻きが響いた。
 そう、逃げ惑っていた者達はランボに辿り着く事はなく、闇の中で銃弾に倒れたのだ。
 ランボは銃に撃たれた者達が完全に事切れた気配を感じると、仕事終了とばかりに銃を懐にしまう。
 闇夜に包まれた中では標的となった者達の姿を確認する事は出来なかったが、それでもこの者達が死んだ事を察する事ができる。
 それは、銃口が標的を捉えていたという自信、発砲した際の手応え、断末魔の呻き、ランボはただそれだけで狙った者達の絶命を察したのだ。
 これは経験の積み重ねで養ったヒットマンの勘ともいえるもので、二十歳になったランボにとって他愛も無いことだった。
 現在のランボは一流には及ばないものの、裏社会に徐々に名が知れ渡り始めたヒットマンになっていたのである。その実力も並のヒットマン以上のもので、今ではボヴィーノを代表するヒットマンであるとともに、ボンゴレのリング守護者という肩書きが遜色無いものになっていた。
 そして、幼い頃は騒々しいと言われていた性格も、成長とともに冷静さが備わり、落ち着いたものになっていたのだ。
「遊んでないで、ちゃんと仕事してよ」
 ランボは自分が狙撃した者達に構うことはなく、先ほどまで銃口を向けていた方向を軽く睨む。そして、少し拗ねた口調で一人の男の名前を口にする。
「リボーン」
 ランボが口にした名前はリボーン。
 こうしてランボがその名前を呼べば、夜の闇の中から黒いスーツを身に纏った男が姿を見せた。
 その姿は月の光が閉ざされた闇夜よりも尚黒く、黒いスーツが夜の中に溶け込んだ姿は、まるで存在自体が黒そのもののようである。リボーンが纏う雰囲気も十六という年齢には不相応なもので、年齢以上の存在感や威圧感、そして揺ぎ無い自信と余裕を感じさせるものだった。それは彼がアルコバレーノという最強の立場にある事も理由の一つだが、それ以上に現在に到るまでの経験や実践を含んだ実力に裏付けられたものである。
 今のリボーンはボルサリーノを目深く被っている為に表情は窺えないが、その容貌は端麗という言葉が相応しく、切れ長の黒い瞳やシニカルな笑みを刻む薄い唇など、目鼻立ちは計算されて作られた造形物のように整ったものだった。
「暇そうに突っ立っているアホ牛に同情したんだ。感謝しろ」
 リボーンは悪びれない口調でそう言い、悠然とした足取りでランボの前へ歩いてきた。
 こうして自分の前で立ち止まったリボーンに、ランボは少し恨めしげな表情になる。
「大きなお世話ってやつだよ」
 ランボは拗ねたような口調でそう言うと、目の前のリボーンを睨むように見上げる。
 数年前まではランボの身長の方が高かったが、今ではリボーンの方が僅かに高くなってしまっているのだ。しかもリボーンは縦にばかり伸びるだけでなく、成長とともに精悍さが増されていき、鍛えられた体躯からは強靭さを感じさせた。
 ランボとて未だに成長期を終えていないが、それでも四つも年下の男を見上げる事になるのは何だか悔しい。
「それに、折角気を使ってくれるなら雑魚以外も残してよ」
「格下の癖に、言うようになったじゃねぇか」
 挑戦的ともいえるランボの言葉に、リボーンは口元に楽しげな笑みを刻む。
 そう、今夜の仕事はリボーンとランボの二人が、ボンゴレから課せられたものだった。
 その内容は暗殺であったが、それには標的の潜伏先壊滅も含まれていたのだ。本来暗殺だけの仕事ならヒットマン一人で行う事が多かったが、今回は潜伏先壊滅が含まれていた為にリング守護者としてランボも召集がかかったのである。
 しかし、潜伏先壊滅が含まれていたとしても、これはリボーン一人でも充分行えるような他愛ない仕事の筈である。それなのにランボが引鉄を引く事になったのは、リボーンが故意に潜伏先の者達をランボが潜んでいた方へ泳がせたからだ。
 ランボは、別に自分の手を煩わされた事が嫌だった訳ではないが、何だか遊ばれているような感覚がして少し面白くなかった。
 だが、そんなランボの内心を知ってか知らずか、リボーンは口元に薄い笑みを刻むだけである。
 そして、リボーンの手がゆっくりとランボへ伸ばされた。
 リボーンの指がランボの首筋を撫で、指先が襟足の髪を遊ぶように絡める。
 ランボは数年前から徐々に髪を伸ばし始めた事もあり、現在は襟足部分などが少し肩にかかるほど長くなっていた。
「髪が伸びたな」
 リボーンは、ランボの髪の感触を指先で楽しみながらそう言った。
 リボーンはこの言葉をまるで軽口のように紡いだが、それとは裏腹に指先の動きは愛撫を与えるかのように甘いものである。
 こうしたリボーンから与えられる甘い感触に、ランボは目を細めてくすぐったそうに笑う。
 闇夜の中にあっても、艶やかな色を帯びるランボの翡翠色の瞳。
 ランボの容姿は、長い睫や垂れた目尻が特徴的な甘く整ったものだが、やはり何よりも目を惹くのは翡翠色の瞳だろう。
 容姿の造形が成長と共に幼さを無くして大人へと変貌するように、ランボの翡翠色の瞳も年齢を増す毎に色に深みを宿していく。色の深みは、経験や思考の成長から導かれるもので、それは他人を惹きつける魅力となるには充分なものだ。
 又、ランボの体躯は男らしい骨格をしながらも華奢と形容される事が多く、それは甘さを匂わせる容姿と相俟って、ランボ自身からはまるで薫るような色香が漂っているようでもあった。
 ランボはリボーンを見つめたまま、首筋に感じる指先の感触に目を細める。
「いつもそうやって女性を口説いてるの?」
「口説かれてぇのか?」
「笑えない冗談だね」
 ランボがそう答えれば、リボーンも「まったくだ」と軽い口調で言葉を返す。
 それはまるで戯れのようだった。
 そしてその戯れは延長され、リボーンの指先が誘うような意図を持ってランボの頬に触れる。
 こうしたリボーンの誘いにランボが抵抗を示す事はなく、それどころか進んで受け入れるようにリボーンを見つめ返した。
 リボーンがランボの腰に手を回し、その身体をゆっくりと腕の中に引き寄せる。
 そうして二人の視線が交わり、一連の流れのように二人の影が重なっていった。
 だが、月が雲に閉ざされた闇夜の中では、互いに迫る容貌や瞳でさえ闇の中に溶け込み、それを確かめる術はない。
 しかし、二人は構わずに見つめあったまま、自然な動作で唇を重ねる。
 こうして口付けを交わす事で、二人はお互いを間近で見つめあっていたが、今は闇夜の中である為に薄闇色のヴェールが視界を覆っている。覆われた視界で見つめるお互いの姿は、瞳の色でさえ闇の中に溶け込んでいるかのようであった。
 二人は唇を静かに重ねながら、闇に紛れる互いの姿を見つめ続ける。
 互いの瞳の色を隠しながら交わす口付けは、まるで戯れのようだ。
 そう、二人にとって口付けは不自然な事ではなく、戯れのように交わされる日常の挨拶にも近いものだったのだ。
 数年前から二人はふとした瞬間に理由もなく口付けを交わす事があった。それは誰もいない廊下であったり、二人だけの仕事の最中であったり、どちらかの部屋であったり、今のように二人だけの時間が流れる最中である。
 初めて口付けを交わした時はランボも驚きを隠しきれなかったが、その口付けはいつしか自然の流れの中で起こる当然のものになっていたのだ。
 そんな二人にとって口付けは戯れであり、理由などなかった。
 ただ言葉遊びをするように、日常的な軽口を交わすように、見知った者と挨拶を交わすように、それはふとした瞬間に自然と交わされるものになっていたのだ。
 だが、だからといって二人の間に肉体関係は無い。
 二人は口付け以上の触れ合いを決して行おうとせず、ある意味『潔癖』ともいえる潔さで一線を踏み越えようとしなかったのだ。
 それは初めて口付けを交わした過去から現在まで続くもので、今の口付けもそれ以上の行為を誘うものではない。
 互いに視線を交わし、口付けを交わしながらも、その奥底にあるのは――――これ以上触れてはいけない、という意思だったのだ。
 そう、二人に共通する一線を越えぬ潔癖とは、互いの強い意志でもあった。
 二人の意思が、これ以上の行為に歯止めをかけていたのである。
 恋愛に身を焦がすほど愚かな二人ではない。
 それが許されない世界である事を、二人は幼い頃から重々に承知している。
 だからこそ決して本気にはならない。
 言葉遊びを楽しみ、戯れのように口付けを交わす。
 ある意味この口付けが、二人にとって限界の、許されるラインであったのだ。
 一線を越えることが距離を縮めてしまうと、二人は無意識に察してしまっていたのである。
 しかし、二人がそれを悲観し後悔する事は決して無かった。
 むしろ、互いに一線を越えずにいる自分が誇らしくもあった。
 二人は知っているのだ。
 互いを想う以上に、大切なものがある事を。
 大切なものの前では、互いの存在など些細なものになる事を。
 その大切なものとは、ファミリーの存在である。
 二人にとってファミリーは『家族』そのものだ。リボーンはボンゴレを、ランボはボヴィーノを、それぞれ大切に守っていきたいと心から思っている。又、二人はファミリーを背負って立つ立場であり、ファミリー以上に優先するものなど他にある筈がないのだ。
 だから二人は強い意思の下、揺ぎ無いファミリーへの忠誠を胸に抱きながら、瞳の奥に真実を隠し続ける。
 こうして交わされている口付けも、決して真実を暴こうとするものではないのだ。
 だが、その時。
 不意に、雲が一陣の風に流され、隠されていた月が夜空を支配する。
 それと同時に月の淡い光が地上を照らし、重なり合う二人の姿を照らし出した。
 月の光は闇夜を一掃し、二人の視界を覆っていた薄闇のヴェールをも取り去ってしまう。
 その時に二人が見たのは、互いの瞳だった。
 ランボはリボーンの黒い瞳を見つめ、リボーンはランボの翡翠色の瞳を見つめていた。
 そう、二人は互いの瞳の奥にある真実を見つめていたのである。
 だが、二人の間に交わされる言葉は無かった。
 二人が暗黙のうちに選んだ道は、真実に気付かない振りをし、真実から目を背けるというものだったのだ。


 二人は知っている。
 恋愛に身を焦がすなど愚かだ。
 決して道を選び間違えてはいけない。
 選択を違えるという事は、身の破滅へと繋がるからである。






 リボーンとの仕事を終えたランボは、翌日になってボヴィーノ屋敷へ向かっていた。
 昨夜の仕事はボンゴレリング守護者としての仕事であったが、本来の自分のファミリーはボヴィーノなのだ。必要最低限の報告は必要なのである。
 ランボは小高い丘の緩やかな傾斜の坂道を登っていく。
 ボヴィーノ屋敷は景観の良い丘の上に建っており、そこからは美しい街並みが一望できる。又、坂道も雑木林や野原に囲まれた緑豊かなもので、そこを抜けるとボヴィーノ屋敷の外観が臨めるのだ。
 坂道を登りきったランボは、真っ直ぐにボヴィーノ屋敷へと足を向ける。
 今のランボは街中にアパートを借りて一人暮らしをしている為、久しぶりにドン・ボヴィーノに会える事が嬉しかった。
 ランボにとって、ドン・ボヴィーノは本当の父親のような存在なのである。ドン・ボヴィーノもランボを幼い頃から実子のように可愛がり、それはランボが二十歳になった現在でも変わらぬ寵愛を見せるほどだ。そしてランボ自身も、こうして特別に気に掛けられる事でマフィアとして目覚しい成長を遂げ、今ではボヴィーノの中でも名立たるヒットマンの一人になる事が出来たのだ。
 その為、ランボにとってボヴィーノ屋敷へ行くという事は、まるで実家に帰るような感覚を覚えるものだった。
 自分を本当の子供のように守り、育て、愛してくれるドン・ボヴィーノに会えるのだから。
 こうしてボヴィーノ屋敷に到着すると、ランボはそのまま外壁の大きな門を抜けようとした。
 だが、ふと屋敷の玄関扉に視線を向ければ、中から見覚えがある白髪混じりの壮年の紳士が出てきた。
 その姿を目にした瞬間、ランボは満面の笑みを浮かべる。
「ダリオさん!!」
 ランボは『ダリオ』と名前を呼び、嬉しそうに駆け出した。
 ダリオはドン・ボヴィーノの実弟であり、ランボが幼い頃にお菓子を貰ったりしてよく可愛がってくれた人である。現在ダリオは数年前から他国へ長期任務に着いている為、ランボにとって数年ぶりの再会なのだ。
「お久しぶりです、ダリオさん!」
 ダリオに駆け寄ったランボは、久しぶりに会えた事を素直に喜ぶ。
 ドン・ボヴィーノの実弟であるダリオは、血の繋がりもあってランボの大好きなボスと雰囲気や容姿などがよく似ていたのだ。
 しかも、ドン・ボヴィーノと同じくダリオもマフィアでありながら無益な抗争や薬物を嫌い、慎ましさを大切にする人物である。又、ダリオはドン・ボヴィーノ以上の情の深さを持ち合わせた人物としても知られており、ランボはその優しさが大好きだった。
「おお、ランボか! 見違えたよ、こんなに大きくなって!」
 ダリオは、数年ぶりに再会したランボの姿に驚いた様子を見せたが、「元気そうだな」と目尻の皺を深めて嬉しそうに笑った。
 そんなダリオの笑顔に、ランボの笑顔もますます深まっていく。
「ダリオさんもお元気そうで良かったです。いつイタリアに戻られたんですか?」
「つい先ほど帰国したばかりだよ。兄には空港から直接会いに来ていたんだ」
「そうでしたか、それはお疲れ様です」
 ランボはそう労うと、何気ない様子で言葉を続ける。
「ダリオさんが顔を見せられて、ボスも喜んでいたでしょう?」
 二人が仲の良い兄弟だとランボは知っている為、ドン・ボヴィーノが喜んだだろう事は簡単に想像できた。
 だから、これはランボにとって何の意図もない質問である。
 だが。
 不意に、その質問に対してダリオは僅かに表情を歪めた。
 それを見逃さなかったランボは、「ダリオさん?」と不審気に首を傾げる。
「……どうかされましたか?」
 ランボが少し心配気にそう訊けば、ダリオは口元に苦笑を刻んだ。
「兄を少し怒らせてしまってね」
「ボスを?」
 ダリオの言葉に、ランボは少し意外そうな表情で目を瞬く。
 ランボは今まで二人が仲違いした姿はおろか、喧嘩をした姿すら見た事はなかったのだ。
 ランボの知っているダリオは純粋に兄であるドン・ボヴィーノを尊敬し、ドン・ボヴィーノもそんなダリオに愛情を持って接していたのだから。
 だが、ダリオは表情を歪めたまま「私がこんな弟である事が、兄に申し訳ないよ……」と小さく呟いた。
 こうしたダリオの言葉にランボは戸惑うが、ランボが慰めの言葉を持つ筈がなかった。
 ドン・ボヴィーノとダリオは実の兄弟であり、いくら二人に愛されているランボとはいえ、二人の問題に口を出す事は出過ぎというものである。
 掛ける言葉が無いランボは困った表情になったが、それに気付いたダリオは「すまない」とランボの心配を宥めるように笑いかけた。
「それじゃあ、私はそろそろ失礼するよ。急ぎの仕事があるんだ」
 ダリオはそれだけを言うと、「元気で」と優しい言葉を残して足早に立ち去っていく。
 ランボはその後ろ姿を見えなくなるまで見送るが、表情は疑問の色を濃くしていた。
 出過ぎた立ち入りだと分かっているが、それでもドン・ボヴィーノとダリオが不協和音を起こす事は珍しいことなのである。
 ランボはそれに対して「早く仲直りすれば良いけど……」と心配気に呟き、ドン・ボヴィーノと面会する為に屋敷の中に入っていったのだった。




「――――――以上が報告です。今回も無事に守護者としての役目を果たしてきました」
 屋敷に入ったランボは、そのままドン・ボヴィーノの執務室に赴いて昨夜の報告を行っていた。
 ランボは報告を「以上です」と問題なく終えると、革張りの執務椅子に腰掛けているドン・ボヴィーノに書類を手渡す。
 だが、ドン・ボヴィーノは受け取った書類を難しい表情で見つめた。
 ランボは、そんなドン・ボヴィーノの様子に不安気に首を傾げる。
 書類の内容は何度もチェックしたので間違いは無い筈であり、仕事の方も万時順調に終えた筈だった。それなのに、表情を曇らせてしまっているドン・ボヴィーノに不安を覚えたのだ。
 ドン・ボヴィーノは普段から好々爺のような穏やかな笑みを浮かべている事が多く、感情の起伏も緩やかで、マフィアのボスには似つかわしくない優しさを持った人物である。しかしそれと同時に、還暦を越えた年齢ながらも現役のような精悍さを感じさせ、ファミリーのボスという肩書きに恥じない人物だった。
 それなのに、普段は何があっても落ち着きを見せているドン・ボヴィーノが、今は困惑気な表情をしているのだ。それは滅多に無い事であり、ランボがそれに不安を覚えるのは当然である。
「ボス、どうかされましたか……?」
 ランボは心配そうにそう訊くが、ドン・ボヴィーノは「……いや、大丈夫だ」と言葉を濁す。
「それより、ボンゴレとは変わりないか?」
「はい。十代目も、他の皆さんもお元気そうですけど……」
 ランボはそう答えながらも、「ボス?」と疑問を浮かべた。
 ドン・ボヴィーノはボンゴレの事を訊きながらも、まるで何かを思い悩むような表情をしているのだ。
 こうしたドン・ボヴィーノの姿に、ランボは言葉も無く黙り込む。
 執務室には重々しい沈黙が落ち、ランボはどうして良いのか分からなかった。
 本来なら退室するべきなのかもしれないが、表情を曇らせるドン・ボヴィーノが心配だったのだ。
 しばらく沈黙の時間が続き、室内には窓の外から聞こえる小鳥のさえずりや、屋敷内の所々から響く生活音だけが響いている。
 そんな中、しばらくしてドン・ボヴィーノはゆっくりと口を開いた。
「ランボ、お前はボヴィーノの人間だが、それと同時にボンゴレリングの守護者でもある。そのお前に、話しておかなければならない事がある」
「オレにですか……?」
 ドン・ボヴィーノの突然の言葉に、ランボは少し驚きながらも居ずまいを正す。
 ランボを見据えるドン・ボヴィーノの眼差しは真剣なもので、口調もひどく重々しいものだったのだ。
 そして、ドン・ボヴィーノはランボを見据えたまま言葉を紡いだ。
「――――ダリオが、反ボンゴレ勢力の者達と接触してしまった」
「え……?」
 この言葉は、ランボが予想もしていなかった言葉だった。
「……それって……っ」
 ドン・ボヴィーノの言葉を理解するにつれ、ランボの顔色は青褪めたように白くなっていく。
 ただ、言葉の意味に愕然としたのだ。
「ボス、それは……」
 ランボの声色が微かに震えた。
 その震えは恐怖からくるもので、ランボはこの信じ難い言葉に「嘘ですよね……?」と耳を疑った。
 だが、ドン・ボヴィーノは真実であると、そう示すように首を横に振ったのだ。
「反ボンゴレ勢力……」
 ランボはこの言葉を呆然と呟く。
 反ボンゴレ勢力とは、イタリア裏社会の中でボンゴレと対立するファミリーの事だった。
 現在のボンゴレファミリーはイタリア裏社会を牛耳る巨大組織で、政界や財界への影響力も強く、ボンゴレを敵に回せばイタリアでは生きていけないと思わせるほどのファミリーである。しかし、そんなボンゴレファミリーを敵視する者も少なからずおり、敵対するファミリーは同盟を組んでボンゴレに対抗しているのだ。
 当然ながらボンゴレが反ボンゴレ勢力を無視する筈がなく、いつか粛清するべき同盟だと睨んでいる筈である。
 そんな反ボンゴレ勢力に、ドン・ボヴィーノの実弟であるダリオが接触したという事はボヴィーノファミリーにとって重大な事だった。
 ボヴィーノとボンゴレは古くから同盟ファミリーなのである。組織の大きさは比べようも無くボンゴレの方が大きいが、それでもランボがボンゴレ十代目と懇意にしている事やファミリーが互いに穏健派である事から、ボンゴレからは信頼と好意を向けられていたのである。
 それなのに、ドン・ボヴィーノの実弟が反ボンゴレ勢力と接触した事は、ボンゴレの信頼を裏切ったといっても過言ではない。
 ランボは、その意味を考えて顔色を無くす。
 だが何より、ランボの脳裏に過ぎったのはボンゴレ十代目である綱吉の事だった。
 綱吉はランボがまだ幼い頃、保育係として面倒を見てくれた人なのだ。その為、綱吉は今もランボの事を年の離れた弟のように思ってくれており、昔から変わらずに慈しみ続けてくれている。ランボ自身もそんな綱吉には感謝しており、リング守護者として守っていきたい人だと思っているのだ。
 そんな綱吉が率いるボンゴレファミリーに仇名すなど考えられない事なのに、それに反して、そう取られても可笑しくない今の状況に心苦しくなる。
「ボス……」
 ランボは不安と困惑、そして微かな怯えを含んだ眼差しでドン・ボヴィーノを見つめた。
 こうしたランボの様子に、ドン・ボヴィーノは苦笑しながらも「心配しなくてもいい」とランボを慰める。
「ランボ、我々ボヴィーノは白だ。反ボンゴレ勢力に決して加担したりしないし、これ以上の接触も許さない」
 ドン・ボヴィーノは力強い口調で言葉を続ける。
「ダリオをボヴィーノから除籍し、監視下に置いて反ボンゴレ勢力との接触を断たせる。そしてこの事は即急にボンゴレに報告し、今回の件にボヴィーノは一切関与していない事やボンゴレを裏切るなど有り得ない事を伝える」
 ドン・ボヴィーノの言葉は、血縁関係のある実弟よりもボンゴレとの同盟を選択した言葉だった。
 ドン・ボヴィーノは知っているのだ。
 ボンゴレファミリーという巨大組織がいかに絶大な権力を手にしており、強大な力を振るうかを。その力の前では、ボヴィーノなどは簡単に消されるだろう。
 そう、ボンゴレを敵に回す事は破滅へ繋がる事なのだ。
 それを知っているドン・ボヴィーノは、大切な実弟を切り捨て、ファミリーの安泰を選択した。
 これはファミリーのボスとして当然の選択といえた。
 この決断は大切な弟を切り捨てる事であり、ドン・ボヴィーノにとって断腸の思いであるが、それでもファミリーを優先させるのがボスとしての役目である。
「ボス、ダリオさんを……」
 ランボは、ボスとしてファミリーを優先したドン・ボヴィーノを痛ましげに見つめた。
 ランボ自身もドン・ボヴィーノの選択は正しいと思っているし、この選択をした自分のボスを尊敬する。だがそれと同時に、実弟を切り捨てる事になったドン・ボヴィーノを思うと辛い気持ちになったのだ。
 ランボは言葉も無く、ただドン・ボヴィーノを心配気に見つめる。
 そんなランボの気遣う眼差しと心に、ドン・ボヴィーノは微かな笑みを浮かべて「心配はいらないよ」と宥めるように言ったのだった。






 翌日。
 ランボはボヴィーノ屋敷を訪れると、違和感を覚えて表情を顰めた。
 屋敷に入った途端、普段とは違った雰囲気を感じたのだ。
 それは戦闘前の緊張感にも似たもので、そういったものを屋敷内で感じてしまう事に異変を嗅ぎ取ったのである。
 不安を覚えたランボが足早にドン・ボヴィーノの執務室に向かうと、そこに違和感の正体があった。
 執務椅子に腰掛けるドン・ボヴィーノの背後に、見慣れぬ男の姿があったのだ。
 ランボはドン・ボヴィーノへの挨拶を済ませると、躊躇いながらも男の事を訊いてみる。
「ボス、その方は……?」
 男にもランボの声が聞こえている筈なのに、男は無表情のままで微動だにしない。
 しかも男の立ち居姿は油断を感じさせないもので、それだけで男が一般の者でない事が知れた。
 その為に不審を隠し切れないランボに、ドン・ボヴィーノは苦笑混じりに答える。
「ボンゴレからの客人だ」
「え、ボンゴレの? どうして……」
「監視というやつだよ」
 監視、それが違和感の正体だった。
 ドン・ボヴィーノからは淡々と言葉が紡がれたが、ランボはその言葉に息を飲む。
 この監視はおそらくダリオの件が原因のものだろう。だが、この件の弁明は昨日の内に即急に行ったのである。それなのにボンゴレから監視されるという事は、事態は明るい方向に向いている訳ではないという事だった。
 そして何より、ボヴィーノもファミリーとしてのプライドがある。いくらボンゴレが格上の同盟ファミリーとはいえ、監視下に置かれる事は屈辱的な事だった。
 ランボが屋敷に入った時に感じた違和感や緊張感も、この監視体制が原因で漂ったものだったのだ。
 そしてランボも、相手がボンゴレとはいえ監視される事に屈辱を感じた。否、相手がボンゴレだからこそ悔しさに拍車が掛かった。監視されるという事は弁明を信じて貰えていない事であり、ランボはそれが悲しかったのだ。
 ランボは屈辱に強く拳を握り締めると、悔しさと怒りを表情に浮かべる。そして。
「オレ、今からボンゴレに行ってきます!」
 勢いのままにそう言うと、踵を返して執務室から駆け出した。
 こうしてボンゴレへ向かおうとするランボをドン・ボヴィーノは止めようとしたが、それでもランボは立ち止まらなかった。
 ランボは、ボヴィーノファミリーのプライドを守りたかったのだ。





 ボヴィーノを飛び出したランボがボンゴレ屋敷へ到着すると、通されたのは綱吉の執務室ではなく来客用の客間だった。
 ランボにとってボンゴレ屋敷の客間は初めて入る部屋だった。
 普段ならボンゴレの身内のように扱われ、ランボが勝手に屋敷内に入っても呼び止められる事はなく、当然のように綱吉の執務室に通されるのだ。
 だが、今日は違っていた。
 ボンゴレ屋敷に入ろうとしたランボは門番の男に立ち止まらされ、そこで綱吉に許可を貰うまで屋敷へ入る事は許されなかったのである。しかも、案内された先は見張り付きの客間だった。
 ランボは客間のソファに腰掛け、綱吉が訪れるのを黙って待ち続ける。
 綱吉に会ったら、訊きたいことがたくさんあった。そして出来る事なら、監視体制を考え直してもらいたい。
 ランボは悔しくてしょうがなかったのだ。
 ボヴィーノの弁明を信じて貰えていない事もそうだが、ボンゴレを訪れて客間に通された事も、ランボの背後に二人の男が見張りとして立っている事も、ランボの悔しさを増幅させていた。
 今のランボの扱いは、今までのものとまったく違っていたのである。
 こうしてランボは待ち続け、しばらくしてようやく客間の扉が開かれた。
「ランボ、待たせてごめんね」
 そう言って客間に入ってきたのは綱吉だった。
 現れた綱吉にランボは立ち上がって挨拶をしようとしたが、その前に綱吉が「そのままでいいよ」とランボを制止する。
「久しぶりだね。先日の仕事もご苦労様」
 綱吉はランボに対し、十年以上前から変わらない気安さでそう言った。
 そんな綱吉の物腰や表情、口調にいたるまでもランボがよく知っているもので、今までと何ら変わらない穏やかさを持っている。
 ただ一つ違う事といえば、綱吉の背後に複数の部下が従っている事だった。その部下は間違いなく護衛の為に付き従っているのだろう。
 ランボは、その護衛の姿に唇を噛み締める。
 今までランボが綱吉と会う時に護衛など用意された事はなかったのだ。それは、ランボが綱吉の護衛代わりになるからである。
 それなのに、今は綱吉の背後に護衛が付き、自分の背後には見張りが付いていた。
 ランボはその事が悔しくもあり、同時に悲しくもあったのだ。
 そんなランボの思いを察してか、綱吉が困ったような笑みを浮かべる。
「ごめんね、物々しくて」
「いえ、理由は分かっています」
 ランボは首を横に振ったが、綱吉を見つめたまま言葉を続ける。
「ですが、その事でお話をしに来ました」
「そうだね、訊ねて来ると思ってたよ」
 綱吉は苦笑混じりにそう言うと、ランボに向かい合うようにしてソファに深く腰掛ける。
「ボヴィーノファミリーに監視体制を引いた事を、ドン・ボヴィーノに申し訳なく思っているよ。もちろんランボにもね」
 別ファミリーの監視下に置かれる事がどれだけ屈辱的な事か、綱吉も分かっていた。
 だが。
「でも、監視体制を引かざるを得なかった事も分かってほしい」
 綱吉は、この言葉をはっきりとした口調で言った。
 その言葉は、綱吉の優先順位を示した言葉であった。
 今の綱吉は怖いほどの真摯さでランボを見据えており、ランボはそれに息を飲む。
 綱吉から得体の知れぬ威圧感を覚え、ランボは言葉を無くしたように黙り込んだ。
 今の綱吉から感じる雰囲気は、ランボがよく知るものではなかったのだ。
 綱吉とランボの関係は十年以上に渡るものだが、どんな時も綱吉はランボに優しかった。
 ランボに向けられる眼差しは優しく、ランボが幼かった頃は一緒に遊び、ランボがどんなに迷惑をかけても許してくれた。それは現在ボンゴレ十代目になっても、変わらずにランボに向けられていたのだ。
 だが今、ランボを見据える綱吉の眼差しは優しさと対極にある。否、確かに優しさを含んでいるが、それ以上に威圧感を感じさせるものだった。
 それは静寂ながらも、他を圧倒するような重圧である。
 これは綱吉が時折見せる、一流マフィアボンゴレ十代目の顔だった。
「どんなに小さな綻びでも、それが崩壊の原因になる可能性がある。だから、オレはファミリーのボスとしてどんな些細な事も見逃す訳にはいかないんだ」
 分かってくれるね? と綱吉は真摯な表情で言葉を続けた。
 綱吉の言葉に、ランボがいったい何を言い返せるだろうか。
 巨大ファミリーボンゴレ十代目としての発言をする綱吉に、いくら雷のリング守護者とはいえランボ如きが物を言える筈が無かったのだ。
 そしてランボ自身も、綱吉の言葉が理解出来てしまった。
 綱吉が最優先するもの、それはファミリーである。
 綱吉はボンゴレ十代目として、ファミリーを守る責任と義務があるのだ。
 綱吉と立場が違うが、ランボだって自分のファミリーを愛しているし、守りたいと思っている。だからこそ、ランボも綱吉の言葉が理解できた。
 だが理解しながらも、感情は理解したくないと思っているし、内心には「でも……」と何かを訴えたい気持ちがある。しかしこの気持ちは、ランボが綱吉と別ファミリーだからこそ生まれるものなのだろう。
 もしランボがボンゴレファミリーの人間なら、綱吉の言葉に反感を抱いたり疑問を持ったりせず、そのままを受け入れていた筈だ。
 こうして、綱吉の言葉に納得しながらも、困惑したように黙りこんでしまうランボ。
 そんなランボに綱吉は表情を和らげ、「でもね」と宥めるような穏やかな口調で言葉を紡いだ。
「監視体制はある程度の時間が過ぎれば解除するつもりだよ。なるべく早めに解除するつもりだし、あんまり気にしないでほしい。オレはドン・ボヴィーノの治めるボヴィーノファミリーが好きなんだ。だからあまり事を荒げたくないと思っている」
「はい。どうか宜しくお願いします……」
 綱吉のこの言葉に嘘は無いと、ランボも分かっている。
 実際ボヴィーノはボンゴレに優遇される事も多く、それはランボに対する扱いを見ても分かる事だ。
 だが。
 ランボはこうして綱吉に優しい言葉を掛けられながらも、変わらぬ監視体制に不安を拭えなかった。
 その不安は、綱吉とランボが別ファミリーの人間であるという事もあったが、監視下に置かれるという事は屈辱以外の何ものでもないからである。
 今、どれだけ穏やかな時間が流れ、綱吉から以前と変わらぬ優しい態度で接しられたとしても、監視下という事実は不安と不審を煽る。
 そして何より、執務室ではなく客間に通されたという事が、ランボに疎外感を覚えさせてしまったのだった。







   第二章・運命が嗤う





 ボヴィーノがボンゴレの監視下に置かれて一ヶ月が経とうとしていた。
 だが、監視されているといっても、いきなりボヴィーノの体制が激変する訳ではない。ボンゴレとボヴィーノの間には変わらずに同盟関係が結ばれており、襲撃や抗争などという最悪の事態に繋がる事は一切無かったのだ。
 ただ以前と違う事を挙げるなら、ボンゴレから寄越された監視役がドン・ボヴィーノに二十四時間張り付いている事だけだった。
 この監視下に置かれるという状況は、裏切りの烙印を押される事に比べれば些細な事ともいえるだろう。
 そう、これは第三者から見ればボンゴレからの慈悲深い温情処置とも思える処遇なのだ。
 本来、身内から裏切り者を出してしまえばファミリー諸共厳しく罰せられて当然であり、最悪の場合は裏切りの烙印とともに壊滅させられる事もあるのである。
 しかしボヴィーノファミリーは、穏健派としての今までの功績と、ドン・ボヴィーノの素早く適切な判断、そしてボンゴレへの即急な伝達のお陰でそれらの事態を免れていたのだ。
 こうした事から、ボヴィーノファミリーは一見すれば以前と同様の平穏さを保ち、それはボンゴレの温情処置によって齎されたもののように見えていた。
 だが、ボヴィーノ内部にいる者達の中で、この平穏を心から安堵する者などいなかったのだ。
 第三者から見れば監視という処遇が些細な事のように見えても、監視体制が引かれて一ヶ月が経った今、内部の者でそれを些細な事と受け取っている者は少なかった。
 誰も声高に荒立てたり不満を顕わにしたりしないが、張り詰めるような緊張感が日増しに高まっているのも事実だったのである。
 そして、それはボヴィーノ屋敷内では顕著に表れていたのだ。
「やれやれ、これじゃあボスのご機嫌が心配だ」
 ドン・ボヴィーノに会う為に屋敷を訪れたランボは、屋敷内に入ると小さく呟いた。
 呟きは冗談めかした軽いものだが、それとは裏腹に、翡翠色の瞳には物憂げな色が微かに滲んでいる。
 今のボヴィーノの現状を思うと、ランボ自身も憂えた思いを隠しきれないのだ。
 ランボは溜息にも似た息を吐くと、手に持っている花束に視線を落とす。
 透明なセロファンで纏められた花束には、ピンク、黄色、白などの淡く明るい色の花が溢れんばかりに束にされている。目に鮮やかなその花々は、花弁の一枚一枚が美しく甘い芳香を漂わせていた。
 この花は屋敷を訪れる途中、街で花売りの荷馬車を見かけたので買ってきたのである。
 ランボとしては、日にちが経つにつれて暗雲が立ち込めるような屋敷に、少しでも明るい色彩を与えたかったのだ。
 ランボは花束を持って執務室の前に来ると、「ランボです」とノックをして来訪を知らせた。
 そうすると室内から「入りなさい」と入室許可が下り、ランボは一度大きく深呼吸して気持ちを明るくしてから扉を開ける。
 只でさえ屋敷内には息苦しい緊張感が漂っているのだ。それならば、せめてドン・ボヴィーノに姿を見せる時は明るく振る舞いたい。
「ボス、失礼します。お会いしたくなって来ちゃいました」
 執務室に入ったランボは、子供が見せるようなイタズラっぽい笑みを浮かべてそう言った。
 そんなランボの姿に、ドン・ボヴィーノも目を優しく細める。
「よく来たな、ランボ」
「はい。今日は休暇ですので、ボスと一緒に食事をしたいと思いまして」
 ランボはそう言うと、ドン・ボヴィーノの背後に立つ監視員を故意に意識から外し、何とも無いような普段の笑顔を浮かべた。
 そして、ドン・ボヴィーノの側に来ると手に持っていた花束を差し出す。
「屋敷に来る途中で花売りを見かけました。花があんまり綺麗でしたので、ボスにお土産です」
「おお、すまない。とても綺麗だ」
 ドン・ボヴィーノは花束を受け取ると、「有り難う。ランボ」とまるで愛し子を見つめるような眼差しをランボに向けた。
 その眼差しは優しく穏やかで、目にした者の気持ちを和らげる落ち着いたものである。それだけを見ればドン・ボヴィーノは普段と変わらぬ様子であると思えただろう。
 しかしランボは見抜いてしまっていた。
 変化は些細なものであったが、ランボは幼い頃からドン・ボヴィーノに敬愛と忠誠を捧げているのである。その為、今のドン・ボヴィーノからは憔悴したような疲れを感じ、優しさを彩らせる瞳には翳りがある事を見逃さなかった。
 それに気付かぬ振りが出来ないランボは、ドン・ボヴィーノを心配気に見つめた。
 そして、ドン・ボヴィーノもそんなランボの気遣いに気付いている。
「ランボ、気を使わせてしまってすまない」
 ドン・ボヴィーノはそう言うと、花束を手渡してくれたランボの手を優しく握る。
「ランボの優しさに感謝しているよ」
「ボス……」
 ランボは、ドン・ボヴィーノの温かく優しい手の感触に泣いてしまいそうな気持ちになった。
 ドン・ボヴィーノの手は温かくて優しくて、ランボにとってとても大きく感じるものである。幼い頃から、この手に守られ導かれてランボは成長したのだ。今のドン・ボヴィーノの手は高齢という事もあって、強く握れば折れそうに細く皺くちゃのものになってしまっているが、それでもランボにとっては昔から変わらずに大きく温かいものである。
 しかし今、ファミリーを守り、導いてきたドン・ボヴィーノが憂えていた。ランボはそれが悲しい。
 だが、そんなランボの思いを察してか、ドン・ボヴィーノはランボの手を握ったまま「私は大丈夫だよ」と元気付けるような笑みを浮かべた。
「ボンゴレが我々を信じられぬというなら、信じてもらえるまで誠意を見せるまでだ」
 実弟を切り捨て、ファミリーの安泰を選び取ったのだ。
 それならば、今がどんなに苦しく屈辱的な状況であったとしても耐え忍ばなくてはならない。
 ドン・ボヴィーノは言外にその意味を込め、力強い口調でそう言った。
 ランボは、そんなドン・ボヴィーノの姿に目を細める。
 そして。
「はい。ボスがそうおっしゃるなら、オレも従います」
 貴方を信じていますと、ランボはドン・ボヴィーノの手を握り返す。
 そう、ランボは信じている。
 幼い頃からドン・ボヴィーノについていくと決めていた。
 そしてファミリーを守ると決めていた。
 ファミリーを導くのがドン・ボヴィーノなら、導かれた先にあるものは決して間違えたものではない。
 今までだってずっと間違いはなかった。だから、これからもそうだと信じられる。
 ランボはドン・ボヴィーノを尊敬し敬愛し、まるで本当の父親のように愛しているのだから。


 しかしボヴィーノ内には綻びが生まれ、それがじわじわと侵食するように広がっているのも、また事実だったのであった――――。






 ある日の夜。
 リボーンは仕事帰りに一軒のバーに立ち寄った。
 そのバーはリボーンにとって馴染みの店で、趣きある白壁の店構えや店内を流れる静かなクラシック、棚を彩る年代もののワインなどが気に入っており、気紛れにふらりと立ち寄る事が多いのだ。
 だが、今夜のバーには見知った先客がいた。
 カウンターに一人で座っていた客は、店内に入ったリボーンに気付くと微かな笑みを浮かべる。
「チャオ、リボーン。偶然だね」
 見知った客とはランボだった。
 薄暗く狭い店内にはカウンター席しかなく、ランボはカウンターの端に座ってリボーンに小さく手を振っている。
「一人で晩酌か?」
「まあね。でも、リボーンも一人で飲みに来たんでしょ? せっかく会ったんだから、一緒に飲もうよ」
 ランボの誘いに、リボーンは僅かに眉を顰めながらも黙って隣の椅子に座った。
 バーに来た当初は一人で酒を楽しむつもりだったが、ランボの誘いを断る理由もなかったのだ。
 しかし、こうして隣に座ったリボーンに、ランボは少し意外そうな表情で目を瞬いた。
「いいの?」
「何がだ」
 リボーンは意味が分からずランボに訊き返す。
「いや、駄目って言われるかと思ってたから……」
 ランボはそう言って苦笑すると、軽い口調で言葉を続ける。
「ほら、今のボヴィーノの状態がアレだからさ。だから、あんまりオレと一緒にいてくれないかもって」
 ランボは何とも無い事のようにそう言ったが、口元には苦笑が刻まれていた。
 実際、今のボンゴレとボヴィーノの関係は同盟関係だが、それが酷く不安定なものである事は暗黙の事実なのである。そんなファミリー同士のヒットマンが一緒にいる事は、妙な噂をでっち上げられても可笑しくないのだ。
 だが、リボーンはランボと同席した。
 リボーンはボンゴレ幹部という中枢に立つ立場であり、不用意な行動は避けるべきである。
 しかし、リボーンはランボを目の前にした時、ファミリーの事情などよりも気に掛かるものを目にしてしまったのだ。
 それは、ランボの纏う雰囲気である。
 今のランボが纏う雰囲気とは、憔悴とも翳りとも不安とも違うもので、もし強引に例えるなら、それは純粋な困惑といえるかもしれない。そういったものをランボは纏っていたのだ。
 しかし困惑といっても、下手をすればランボ自身も自分が何に困惑しているか分かっていないかもしれないと、リボーンはそう思った。
 現在のファミリー同士の関係を考えれば困惑の理由が思い当たらない訳ではないが、それは互いのボス同士が解決する事であって、リボーンは自分が簡単に関与するべきでないと思っている。
 それにランボは雷のリング守護者という立場であるが、それ以上にボヴィーノファミリーの人間なのだ。ボスがファミリーを守る義務があるように、その下にいる者は自分のボスを守る義務がある。そうした中で、リボーンが別ファミリーのランボにかける言葉など無い。
 こうして二人の間には沈黙が落ち、店内には静かなクラシックだけが響いていた。
 ランボがリボーンを誘ったのだが、今のランボは必要以上に喋ろうとしなかったのだ。
 沈黙が支配する中、二人は言葉も無く酒を飲み続ける。
 しばらくそんな時間が流れたが、ふとランボが「ねぇ」とリボーンを小さく呼んだ。
「ねぇ、リボーン。リボーンの一番大切なものって何?」
 突然紡がれたランボの問い。
 ランボはグラスに視線を向けたまま、何気ない様子でリボーンにそう訊いた。
 その問いは、現在の状況を考えると真意を計るには難しい問いだった。だが、それでもリボーンが答えるべき言葉は決まっている。
「ファミリーだ」
 これ以外の答えは持ち合わせない。
 赤ん坊の頃からヒットマンとして生きてきたリボーンにとって、それは迷うまでも無い答えだった。
 その答えに、ランボはリボーンを振り返って小さく笑う。
「良かった。オレもファミリーだよ」
 同じだね、とランボはリボーンに笑いかけた。
 リボーンは自分に笑いかけるランボに視線を向け、不審気に目を細める。
 ランボの笑みは、安堵の表情にも見えるものだったのだ。だが、表情は安堵でありながらも、リボーンを見つめる眼差しはそれを裏切っていた。
 今、戯れのように言葉を交わしながらも、瞳は口付けを交わす時のような色を持っていた。
 その色とは、真実を隠す色だ。
 心の奥底に真実を宿しながらも、それに気付かぬ振りをする。
 瞳に真実を湛えながらも、それを隠してしまう。
 湛えながらも隠すなど、それは矛盾だった。
 しかし、リボーンとランボの二人はその矛盾に気付かぬ振りをしている。
 そう、リボーンは今、ランボの瞳の奥にある真実に気付かぬ振りをした。
 そんな二人の姿は、真実に触れ合う事を恐れているような姿だった。
 二人には、口付けを交し合うようになった数年前から予感があったのだ。
 真実を追求し、暴いてしまったなら、何かが崩れるという予感が――――。





 数日後の夜。
 その日は朝から雨が降り、夜になると雨は嵐に姿を変えていた。
 激しい雨風がイタリアの街を吹き荒れる。ランボのいるボヴィーノ屋敷も強い雨風が窓ガラスを叩き、屋敷内には轟々とした嵐の音が響いていた。
 そんな中、ランボはボヴィーノ屋敷の広間でディナーのテーブルを囲んでいる。
 今夜はボヴィーノ月例の会食の日であり、ドン・ボヴィーノを中心にファミリーの幹部達が一同に会してディナーを楽しむのだ。
 今もドン・ボヴィーノの背後には監視役の男が立っていたが、長年続けられてきた会食は開催された。否、今のような時だからこそファミリー内の結束を高める為に開催されたのである。
 そして今夜の会食には、ボンゴレと縁深いランボも特別に参加を許されたのだ。
「ランボ、どうしたのかね? ぼーっとして」
 不意に、ランボはドン・ボヴィーノから声を掛けられた。
 窓から外の光景をぼんやりと見ていたランボは、いつの間にか食事の手が止まっていたのだ。
 そんなランボはドン・ボヴィーノから声を掛けられた事でハッとし、「何でもありません」と慌てて頭を振った。
 しかし、ランボの視線の先に気付いていたドン・ボヴィーノは優しく目を細める。
「今夜の天気は荒れているね。でも、嵐は続くものではない」
 ドン・ボヴィーノはそう言うと、口元に穏やかな笑みを刻んで言葉を続ける。
「明日になれば晴れるだろう」
 笑みとともに紡がれた言葉は、明るい兆しを籠めた言葉だった。
 外は激しい嵐が吹き荒れているというのに、それを目にしながらも前向きと思える言葉である。
 ランボはそれを聞いた時、何だか嬉しい気持ちになった。
 この言葉は他愛の無い言葉であり、内容は正論だと分かっているが、今のドン・ボヴィーノがそれを口にしてくれた事が嬉しかったのだ。
 最近のボヴィーノ屋敷内は緊張感が色濃くなってきており、ドン・ボヴィーノ自身も気落ちした姿を見せる事が多くなっていた。
 それを思うと、そんな中で少しでも明るい姿を見せてくれたドン・ボヴィーノに、ランボの気分も浮上した。
 ランボは「そうですね」と笑みを返し、そしてもう一度窓の外に視線を向ける。
 明日になれば嵐は過ぎ去り、きっと青空が広がるだろう。
 ドン・ボヴィーノがそう言うのなら、それは確かな事だと思える。
 叶うなら、その明るい青空がドン・ボヴィーノの心を優しい光で満たし、ファミリーが安寧の道を辿れるように。
 今のランボの望みはそれだけだ。それだけでいい。
「さあ、食事を進めなさい。今夜はランボの為に秘蔵のワインを出そう」
「ボス、有り難うございます」
 気遣ってくれるドン・ボヴィーノにランボは感謝し、止めていた食事を進めだす。
 こうして外の嵐を忘れ、ランボはファミリーの仲間達とディナーを楽しみだした。
 だが、その時。
 突然、広間に急かすようなノックの音が響いた。
 食事中の不粋なノックに、ドン・ボヴィーノは眉を顰めながらも入室を許可する。
「お食事中に失礼しますっ」
 そう言って入室したのは、どこか焦った様子を見せる執事だった。
 執事はドン・ボヴィーノの側に寄ると、その耳元に小さく何事かを伝える。
 ファミリーの幹部やランボはその様子を黙って見守っていたが、不意に、話を聞き終えたドン・ボヴィーノが血相を変えて立ち上がった。
「ボス……?」
 様子が激変したドン・ボヴィーノに、広間にいたランボや幹部達は一様に表情を変える。
 しかしドン・ボヴィーノはそれに構うことは無く、「席を外すっ」と言い置くと足早に広間を出て行ってしまった。
 残された者達は何事かとざわめきだすが、ドン・ボヴィーノの只ならぬ様子に黙っていられず、ランボや幹部達も急いで後を追い駆けたのだった。




 広間を出たドン・ボヴィーノが向かったのは、屋敷の玄関ホールだった。
 外は嵐だというのに玄関の扉は開け放たれ、そこから強い突風が吹き込んでくる。
 しかし、ドン・ボヴィーノは突風を受けながらも微動だにせず、ただ愕然とした表情で立ち尽くしていたのだ。
 その奇妙な光景を、追い駆けてきたランボ達は不審に思う。
 だが、直ぐにその原因を知る事になった。
 ダリオだ。
 そう、ドン・ボヴィーノの足元に、ダリオが蹲るようにして倒れていたのである。
「兄さん……っ、……兄……さんっ」
 ダリオの声色は弱々しく掠れたものだった。
 それは消え入りそうに細いものだが、身体の奥底からドン・ボヴィーノの名前を呼ぶ声だった。
 今のダリオは肩と足を鮮血に染め、スーツは所々が破れて泥だらけになっている。
 未だに血を流し続ける傷口は銃が原因のもので、それだけでダリオが襲われたのだと知れた。きっとダリオは襲われながらも命からがら逃げてきたのだろう。
「……助けてくれ……っ、……兄さん、助けてくれ……!」
 ダリオは、ドン・ボヴィーノに手を伸ばし、ズボンの裾を必死に握り締めた。
「兄さん……っ」
 ダリオは泥塗れの顔を涙で濡らし、恐怖で表情を歪ませ、それでも縋るようにドン・ボヴィーノを見上げている。
 そんなダリオの姿に、ドン・ボヴィーノが哀情を抱かぬ筈がなかった。
 今まで愕然と立ち尽くしていたドン・ボヴィーノが、その眼差しに哀れみと悲しみの色を湛えたのだ。
「……ダリオ……」
 ドン・ボヴィーノは、自分に縋るダリオに手を差し伸べる。
 その姿は、まるで迷子の子供に慈しみを向けるような温かな姿だった。
 だが。
「――――お待ち下さい」
 ドン・ボヴィーノの手がダリオに触れようとした時、不意に、今まで成り行きを見ていた監視役の男が割って入った。
 男は、ダリオに触れようとするドン・ボヴィーノの手を遮り、厳しい表情で立ち塞がったのだ。
「この男に手を貸せば、どういう事になるかご存知の筈です」
 男は咎めるような口調でそう言い放ち、ドン・ボヴィーノに強く言葉を続ける。
「男をボンゴレに引き渡して下さい」
「ボンゴレに……?」
 ドン・ボヴィーノは苦渋の表情で拳を握り締めた。
 ボンゴレに引き渡すという事は、ダリオの死を意味する。それは当然であり、絶対だった。
 だが、だからといってダリオを助けるという事は、ドン・ボヴィーノがボンゴレを裏切るという事である。裏社会において、裏切りとは大罪なのだ。
 そして何より、強大なボンゴレファミリーの前では、ボヴィーノファミリーなど取るに足らないものなのである。裏切った結果など、誰の目にも明らかだった。
 今、ドン・ボヴィーノには全てを左右する決断が迫られている。
 ファミリーのボスとして、決して違えてはならない決断が迫られているのだ。
 判断を誤れば、それは間違いなく破滅へと繋がっている。
「分かった」
 ドン・ボヴィーノは静かに答えた。
 そしてダリオへ差し出していた手を戻し、監視役の男を見据える。
「君の言いたい事は分かっている。そして、ボンゴレの意思も」
 今、男を見据えるドン・ボヴィーノの眼差しは、静謐ながらも力強さを持つものだった。
 それは確かな意思を感じさせるもので、最近のドン・ボヴィーノからは見られなかった力強さである。
 そう、その様子はドン・ボヴィーノの中で決断が下されたという姿だった。
 今のドン・ボヴィーノの姿は風格と威厳を感じさせ、間違いなくそれはファミリーのボスである。
 その姿を見たダリオは、「ああ……」と絶望に嘆いた。
 ボスとしての姿を見せるドン・ボヴィーノに、ダリオは自分の命運を悟ったのだ。
 そして、それを見届けた監視役の男は、ドン・ボヴィーノの決断を察して「失礼します」とダリオを回収しようとする。
 だが、その時だった。


 ――――――パンッ。


 不意に響いた、一発の銃声。
 その銃声に、その場にいた者達はハッと息を飲んだ。
 そして、皆は銃弾に撃ち抜かれた人物を見て顔色を無くす。
 銃弾に襲われたのは命運を察したダリオではなく、監視役の男だったのだ。
 男の胸部からはおびただしい量の血が噴き出し、男は驚愕の表情でその場に倒れて絶命した。
 そんな男を見届けたドン・ボヴィーノの手には、普段から身に忍ばせている護身用の銃が握られている。
 そう、その銃口から銃弾が放たれ、ボンゴレから寄越された監視役を射殺したのだ。
 それは一瞬の事だった。
 この一瞬が、全ての命運を決定付けた。
 これを目にしたランボ達は、言葉も無く立ち尽くす。
 外は激しい嵐に見舞われており、開いたままの玄関扉から突風が屋敷内を荒らしている。
 だが、今はその雨風の音さえ誰の耳にも入っていなかった。
 ただ目の前の事態と、選択された道筋の先にあるものに、皆は得も言えぬ思いを抱いていたのだ。
 その思いとは、不安、迷い、困惑、戸惑い、そういった惑わしのものである。
 しかし。
「愚かな私を許してほしい」
 皆が惑う中、ドン・ボヴィーノから紡がれた言葉は謝罪だった。
 ドン・ボヴィーノは、今までの光景を目にしていた幹部達やランボ、そして屋敷の使用人達を見回す。
「……私は、ファミリーのボスとして間違いを犯した」
 静かに続けられた言葉。
 これは懺悔の響きを持つ謝罪である。
 ドン・ボヴィーノは静かにそれだけを口にすると、足元で蹲り呆然としているダリオに手を差し伸べた。
「私は自分の弱さ故に、身内の哀願に憐憫の情を抱いてしまった」
 ドン・ボヴィーノは蹲るダリオを抱き起こし、泥塗れの顔を拭ってやる。
「私はこの選択が間違いだったと分かっている。だが、選んでしまったんだ」
 両手に大切な実弟を抱き、ドン・ボヴィーノは部下達に苦笑を向けた。
 その笑みは切なさを感じさせるものだが、それと同時に優しさを含んだものである。
「だから、皆は好きにして欲しい。ボヴィーノを見限っても、それを裏切りとして見なす事はしない」
 この言葉に、今まで動揺していた部下達は大きくざわついた。
 ドン・ボヴィーノの言葉は、決別を促すものだったのだ。
 その決別が部下達を思っての事とはいえ、ボヴィーノを長年大切にしてきた者達にとっては肉親との決別と同義である。
「ボス、待ってください!」
 一人の幹部がドン・ボヴィーノの前に飛び出した。
 この一人が引き金になり、次々にドン・ボヴィーノを慕う者達が駆け寄っていく。そして、ファミリー幹部達はドン・ボヴィーノの前に整列して深々と頭を下げたのだ。
 これが幹部達の選択した道だった。
 そんな幹部達の姿に、ドン・ボヴィーノは優しさを湛えながらも厳しい表情で重く頷く。
「ありがとう」
 ドン・ボヴィーノは、自分と命運を共にする幹部達に感謝した。
 幹部達はドン・ボヴィーノの言葉に目頭を熱くすると、一様に頷いてこれからの為に動き出す。
 使用人達は怪我をしているダリオを手当てする為に別室へ連れて行き、幹部達は多方面への連絡、今後起こってくる問題を解決するべく素早く動き出したのだ。
 こうして皆がそれぞれの仕事を始める中、玄関ホールにはドン・ボヴィーノとランボだけが残された。
 ドン・ボヴィーノはランボを見つめ、困ったような表情で「ランボ」と名前を呼ぶ。
「……すまない、ランボ。お前は雷のリング守護者だというのに、ボヴィーノはこんな事になってしまった……」
「ボス……」
 ランボは何て答えて良いか分からず、頼りない眼差しで見つめ返す。
 ドン・ボヴィーノの言葉には、確かな覚悟と、これからボヴィーノが辿る道筋を悟ったような響きがあったのだ。
 だが、ドン・ボヴィーノはランボを見つめたままゆっくりと言葉を続ける。
「お前はまだ若い。これから先の事は、お前の思うようにしなさい」
 この言葉に、ランボは「え?」と顔をあげた。
「ボス、それはどういう事ですか……?」
「ボンゴレに行っても良いという事だ。ボヴィーノはこんな状態になったが、お前はボンゴレのリング守護者だ。向こうもお前を悪いようにはしないだろう」
 ランボは愕然となった。
 ドン・ボヴィーノの言葉の意味も、その心遣いも分かるが、それでもこうして目前に突きつけられると言葉を無くす思いだった。
 確かにランボにとってボンゴレファミリーとは特別である。十代目である綱吉は、ランボが幼少の頃から世話になっている恩人だ。他に獄寺や山本達だってランボにとっては大切な人達である。
 ――――だが。
 ランボは真っ直ぐにドン・ボヴィーノを見据えた。
 そして、ゆっくりとした足取りでドン・ボヴィーノの前に立つ。
「ボス、オレはもう決めています」
 静かに紡がれた、ランボの言葉。
 ランボはドン・ボヴィーノを見つめたまま、迷い無く誓いの言葉を選び取る。
「オレはボヴィーノファミリーの人間です。ボスは、オレにとって父親なんです」
 大好きなんです……、とランボはドン・ボヴィーノに微笑んだ。
 その微笑は今にも泣いてしまいそうな切ないものだが、それでも迷いの無い潔さを感じさせるものである。
「オレは、――――貴方の子供です」
 子供が父親を裏切るなど、どうして出来るだろうか。
 ランボはボンゴレの優しさを知っているが、それと同時に恐ろしさも知っている。
 だからこそボヴィーノを守りたい。
 ランボは膝を折り、ドン・ボヴィーノの前に跪く。
 そして、銃を握ったままのドン・ボヴィーノの手を取った。
 ドン・ボヴィーノの手は、年齢を重ねた皺くちゃの手だった。強く握れば折れそうな細いものだった。しかし、この手に守られてきた。ファミリーもランボもこの手に導かれ、守られてきたのだ。
 この大切な手を、振り払うなど出来る筈がない。
 ランボは、ドン・ボヴィーノの手を取ったまま静かに目を閉じる。


「過去も、現在も、未来も、貴方に変わらぬ忠誠を」


 迷いなく紡がれたのは、忠誠の言葉。
 忠誠とは誓いである。
 この厳かな誓いとともに、ランボはドン・ボヴィーノの手の甲に唇を寄せる。
 この時、ランボは確かに自分の意志で道を選択した。
 第三者から見れば、馬鹿な選択だと嘲笑われるかもしれない。
 これは誰の目にも明らかな破滅への道なのだ。
 しかし、例えこの選択が間違いであったとしてもランボに後悔はない。
 そして何より彼ならば。
 リボーンならば、この選択を理解してくれるだろう。
 リボーンと自分は立場の違いがあったが、共に幼い頃から裏社会に生きてきたのである。
 あの超一流ヒットマンに理解してもらえるなら、同じヒットマンとしてそれは最高の賛辞だ。


 外は嵐が吹き荒れている。
 嵐はいずれ止むものだと言われた。
 しかし今、ボヴィーノが辿る道筋は嵐の中に引かれたのだ。
 そう、今日のこの時より、ボヴィーノがボンゴレを裏切った事で、両ファミリーの間に完全な敵対関係が成立したのだった――――。




   第三章・選択の時





 ボヴィーノがボンゴレを裏切った、その翌日。
 ボンゴレ屋敷の執務室に、リング守護者を始めとしたボンゴレ幹部の面々が勢揃いしていた。
 裏社会屈指の巨大組織であるボンゴレファミリーは、幹部の顔ぶれも錚々たるものである。
 しかし今、揃うはずの人物が一人だけ揃わなかった。その事が、集まった者達の表情を固くしていた。
 揃わなかった一人とは、雷のリング守護者であるランボだ。
 皆は口を硬く閉ざしランボの事に触れようとする者はいなかったが、実情は暗黙のうちに知れ渡っていたのだ。
 執務室をこうした沈黙が支配する中、その中心にはボンゴレ十代目である綱吉がいた。
 綱吉は幹部の面々を見渡し、厳しい表情で口を開く。
「皆も、集まってもらった理由は分かっていると思う。昨夜、ボヴィーノに送っていた監視役の消息が絶った。それと同時刻、反ボンゴレ勢力に加担しているダリオがボヴィーノの屋敷に入った事を諜報員が確認している」
 淡々とした口調で言葉が紡がれた。
 この言葉を口にする綱吉の表情は、全ての感情を削ぎ落として事実だけを述べるものだった。
「これはボヴィーノの裏切りだとオレは認識した」
 綱吉は『裏切り』という言葉を一際強く言い放つ。
 この言葉に、リング守護者の中でも特に獄寺と山本の二人が顔色を変えた。
 二人は綱吉と同様にランボを幼い頃からよく知っている為、分かっていた事とはいえ、綱吉が口にした言葉に動揺を隠し切れなかったのだ。
 しかし今は、綱吉の言葉を黙って聞き続ける。
 二人にとって、綱吉は従うべきボスなのだ。
「ボヴィーノを同盟から外し、ボンゴレの敵対ファミリーと位置づける。そしてこれを機に、反ボンゴレ勢力の――――粛清を行う」
 それは、抗争の宣言だった。
 綱吉はこの機会に、ボヴィーノに裏切りの代償を払わせるだけでなく、反ボンゴレ勢力の壊滅を命令したのだ。
 この宣言に執務室にいた者達は一様にざわめきだすが、反対を口にする者など誰一人としていなかった。
 反ボンゴレ勢力はいずれ壊滅するべきだと皆は認識していた事もあり、この決断を下した綱吉に抗う者がいる筈がないのだ。
 粛清の宣言をした綱吉は、リング守護者や幹部連中にそれぞれの仕事を命令していく。その命令内容は、抗争を前に政財界に根回しを行う余念が無いものである。
 こうして粛清は開始され、イタリアを中心とした欧州裏社会に抗争の嵐が巻き起こるのだった。






                                  同人に続く




今回は一言で申しますと、駆け落ちネタです…。
以前から書いてみたかったんですよね。リボラン駆け落ちネタ。
でも本音を言えば、私にはだいぶ荷が重かったような気がします。想像してたよりもずっと難しくて、書きあがるのに予定より10日もオーバーしてました。
でも書けて満足です。
今回、今までに無いほど綱吉や獄寺が出てきました。綱吉は書いてて面白いですね。書いてみてますます好きになりましたよ。ちょっとツナ獄ツナ風味があるかな? という気がしないでもないんですが、基本的にツナ+獄寺な感じです。獄寺が一番動かしやすかったんですよね。さすが右腕。
駆け落ちネタですが、ラストはリボランハッピーエンドです。
で、リボ様は相変わらず最強。

私は、リボーンとランボは当然ですが、他の主要キャラの不幸も書きません。
バッドエンドを読むのは平気なんですが、書くのは苦手なんですよ。恐いんです、私が。
物語には救いがあって欲しいと思っています。どんなに不幸な展開が続いてもラストには救いを、みたいな感じで。
そんでせっかく読んでいただいたんですから、読後感には「良かったね」とかそういうプラス方向の気分になっていただければ、それだけで書いて良かったと思えます。
まあ、もう一つ本音を言えば、私がバッドエンドを書くのが恐いというだけなんですがね(-_-;)ゞ





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送