序章・人魚の涙 【人魚】とは伝説上の生き物である。 その姿形は上半身が人間で下半身が魚類という不可思議なもので、古い伝説や物語に多く登場していた。 彼らは水中に生息する生き物と考えられ、中世の時代より存在を囁かれ続けるが、現代では物語として受け継がれている事が多い者達である。 その存在は、二十一世紀の現代社会において圧倒的に空想の産物とされており、一部の妄信的な者達を別にすれば、人魚という存在を信じる者など皆無に等しいだろう。 又、現代の文明では無人探査機が深海まで潜り、世界各国の潜水艦が国の治安維持を掲げて海底を行き来し、船の航路は目測ではなくコンピューターシステムで管理されているのだ。 それは情緒を挟まぬリアルなシステムであり、そこには神秘性など一切存在しない。 そう、中世の時代には、美しい容姿と歌声で航海中の人を惑わし、遭難、難破させたというローレライ伝説やセイレーン伝説などが囁かれていたが、現代のシステムはそれらに付け入る隙を与えていなかったのだ。 しかしそれと同時に世界の文明が発展の一途を辿れば辿るほど、人魚の神秘性は増していった。 語り継がれる伝説や物語は、中世から近代に移り変わる中で空想のものとして位置付けられたが、その内容は儚さや悲劇性を色濃くしていったのだ。 こうした中で、悪魔的なイメージが付き纏うローレライ伝説やセイレーン伝説の秘めた悲劇性に光が当てられ、それは読み解く者を魅了してやまない物語となった。 そして、最も有名な物語は『人魚姫』というアンデルセンの童話だろう。 その内容は王子に恋した人魚姫が真実を明かされぬまま、自分自身よりも愛する王子の平穏を選んで海に身を投げるという物語である。 純粋に王子を愛したが故に報われる事がなかった恋の物語は、今まであった人魚の悪魔的なイメージを払拭して純潔の象徴にまで伸し上げたのだ。 こうした人魚の物語は、純潔と純粋さ故に悲しい結末を迎えるものが多かった。 だが、悲劇は深ければ深いほど心が宿るものである。 心というものは目に見えないものであり、この世に物質として存在しないものだ。そしてどんなに文明や科学が進歩しても、心だけは解明し得ないものだった。 誰もが見たことが無いものなのに、誰もが持っている心。 そうした【心】は時として不可思議な力を持つものである。 その為、悲劇の象徴である人魚物語には読み伝えた者達の中で、いつの時代からか囁かれるようになった伝承があった。 それは、――――【人魚の涙】は奇跡を起こすというものだ。 嘘か真実かは定かではないが、悲劇の中で流される人魚の涙は高潔でいて純粋である。 純然たる想いから零れる人魚の涙は、真珠のような形状をしていると伝えられ、陽の光に翳せば七色の光沢が美しく輝き、満月の光に翳せば碧い海の色に輝くと云われていた。故に、いつの時代からか人魚の涙は宝石として実在すると信じられ始めたのだった。 碧の刑場 第一章・月が満ちて 地上の光が届かぬ暗い海の底。 そこは地上と違う世界が広がっていた。 地上には当たり前のようにある空気というものがなく、広大な面積を海水だけが支配する世界なのだ。 そしてその世界に生きる生物は動物群の中で脊椎動物に属し、魚類と位置付けられる生物である。魚類の体表は全体が鱗で覆われ、鰓呼吸を行い、尾ひれを用いて移動する動物だった。魚類のほとんどが水中だけでしか生息する事が出来ず、海流の中で自由に泳いでいるのだ。 そういった魚類の大多数が陸上で生息する事は不可能である。そして又、陸上で生息する生物も海で生息する事は不可能だった。 故に、陸と海は別世界の造りをしている。 同じ地球上にありながら、全ての環境が違っていた。 陸上に草木が生えるように、海中にも海草が生えるが、生態はそれぞれの環境に適合するつくりをしているのだ。 そして今も、海の住人である魚達が広大な海を自由に泳いでいる。 暗い海の中をたくさんの小魚が群れを成して泳ぐ光景は、海中では当たり前のものだった。 だが、こうした光景が広がる中で、他の魚類とは姿形の違った生き物がいた。 魚類とは体表の全体が鱗に覆われているものだが、その生き物は下半身部分だけしか鱗に覆われておらず、上半身部分は人間だったのである。 そう、まさに人魚という生き物だった。 下半身を纏う鱗は微かに翠を帯びた銀である。薄っすらと翠が混じった銀の鱗は、暗い海の中にあっても銀の光を纏っているかのように美しく、その先端でたゆたう尾ひれはヴェールのように水の流れに揺れている。 それだけならば尾ひれを持つ生き物として海の中で違和感は無かったが、その生き物の上半身は人間なのだ。 腰より上は、肌理細かな乳白色の素肌であり、両腕の先には手がある。その姿はまさに人間のもので、人間なら男という性別だった。 それは伝説や物語に登場する人魚の姿形であり、海の中を泳ぐ姿は空を自由に飛びまわる鳥のように優美である。 だが、群れを成して泳ぐ魚達の中で人魚は一人だった。 同じ種族で群れを形成する事はなく、一人で広大な海を泳いでいる。 その人魚の名前はランボ。 ランボは地球上に存在するたった一人の人魚なのだ。 ランボは自分以外の人魚を知らない。生まれた時から既に一人だった。 しかし、それを寂しいと思った事は一度もない。何故なら最初から一人な為、それ以外の環境を望むことはなかった。そう、『同種族の仲間』というものを最初から知らないのだから、それを欲する事もなかったのである。 ランボは生まれてから一人であったので、一人という感覚が当たり前のものだったのだ。 ランボは流れるような泳ぎで魚達の群れの横を通り過ぎ、海流に揺れる海草の野原を抜けて、海底にある岩場の影に入っていく。 大きな岩が積み上げられたような岩場には、人一人が通り抜けられる僅かな隙間があり、そこを抜けた先にランボが住み家にしている場所があるのだ。 入り口は狭く薄暗いが、住み家にしている空間は一人で住むには充分な広さがある。入り口の狭さは不便に思う時もあるが、多種多様な生物が住む海の中で安住を確保する為には大切なことだった。 ランボは岩場の中にある住み家に戻ると、そこを見回してうっとりとした表情になる。 「いつ見ても壮観だな」 そう口にしたランボの口調は、とても満足気なものだった。 何故なら、此処はランボの住み家であるのと同時に、コレクションを安置する場所でもあるのだ。 ランボがコレクションしている物とは陸の世界から海へと落とされた物、正しくは捨てられた物である。 ランボにとって陸の世界で作られた物は珍しい物ばかりで、それを収集してコレクションしていたのだ。 コレクションの中には空のペットボトルや壊れた玩具など、はっきりいってゴミとしか分類出来ない物もあったが、ランボからすれば陸の物はゴミですら宝物だった。 ランボはコレクションが所狭しと並んでいる自分の住み家に満足気に微笑むと、ふと、頭上を見上げた。 視界には積み上げられた岩の天井が映るが、ランボが意識しているのは天井を通り越した先に広がる空である。 今は地上が闇夜に包まれる時刻なのだ。きっと夜空には月が昇っているだろう。 ランボは夜空で煌々と輝く月を思うと、自分の住み家から出て海面を目指して泳ぎだした。 海底から海面へと泳いだランボは、そのままゆっくりと浅瀬にある岩場へ向かう。 夜の海岸は人間の気配も無く、海は静寂と暗闇に満ちていて吸い込まれそうな錯覚を覚えるものだ。しかし、ランボはそれを恐ろしいと思う事はない。ランボにとって海は暗いのが当たり前で、自分が生きる場所なのだ。暗闇の世界であったとしても、自分が生きる場所を怖いと思う者などいないだろう。 ランボは岩場に着くと、尾を海に浸したまま波打ち際の岩場に座った。 ランボが座る岩場には小さな波が寄せては返し、岩に打たれた小波はちゃぷちゃぷと遊んでいるようである。ランボは小さな遊びに興じる波に目を細め、次に広大な海へと眼差しを向けた。 夜空を支配する月は煌々と輝き、地上に淡い光をもたらしている。ランボが暮らす海にも等しく光は照らされるが、それは海面で反射するだけで海底へ届くことはない。 だが、海面に映る月はゆらゆらと揺れ、その光景は幻想的に美しいものである。海面に映る月は波に揺られて形を変え、まるで海の上で踊っているようだったのだ。 今夜は明るい月夜だ。でも、三日後の月はもっと輝くだろう。 そう、三日後は満月である。 満月の夜、ランボは人間になるのだ。 ランボは海面に浸した尾を見つめ、「嘘みたいだ……」と小さく呟いた。 人魚は十五歳になってから、十年に一度だけ不思議な現象が起こるのである。それが人間になるというものだった。 本来、人魚というものは尾が空気に触れて乾くと死んでしまうのである。それなのに、三日後の満月の夜からは尾が乾くと人間の足になるのだ。 しかし人間になるといってもずっと人間の姿でいる訳ではない。三日後の満月から次の満月までの期間を人間の姿で過ごす事ができるというものだった。 その期間だけは、尾を乾かせば人間の足になり、足を海水に浸せば人魚の尾に戻る。これは一定の期間だけ起こる不思議な現象だったのだ。 この不思議な現象をランボは誰かに教えられた訳ではない。ランボがその事を知っているのは、赤ん坊が生まれた瞬間から呼吸の方法を身体が知っているように、ランボもそれを生まれ持った知識として身体が知っていた。 これは十五歳になってから起こる、十年に一度の現象である。 ランボは、期限付きとはいえ自分が人間になる事を想像し、期待と不安に胸を高鳴らせた。 十五歳になったばかりのランボにとって、それは初めて陸の世界に触れる機会だったのだ。この機会を逃せば次に人間になれるのは十年後になってしまう事もあり、ランボは間近に迫った初めての機会に緊張と興奮が隠し切れなかった。 だが、ランボは人間になれる事をこうして楽しみにしているが、かといって人間に対して憧れを抱いている訳ではない。少しの期間だけ陸の世界を見学できればいい、という若い好奇心からくる高揚感なのだ。 ランボは、今は海に浸している尾を見つめる。 三日後にはこの尾が二本の足になり、陸上を歩くことが出来るようになる。それはとても不思議な感覚だった。 それを思うとランボは逸る気持ちで一杯になり、寄せる波を尾で掻き回す。そうすればぱちゃぱちゃと海水が跳ねる音が耳に心地よく、ランボは海が奏でる音を楽しんだ。 だが不意に、ランボはハッと表情を変える。 「誰かいる……っ」 一人で海の音を楽しんでいたランボだったが、ふと人間の気配を近くに感じたのだ。 ランボは驚きに息を呑むと、慌てて岩陰に身を隠した。 しかし近くに感じる人間の気配に好奇心を抑えきれず、気配を殺してこっそりと人間がいる方向に視線を向ける。 ランボが身を潜める場所は岩場であるが、岩場を抜けた先には砂地が広がる砂浜があった。人間がいるのはそこのようである。 こうしてランボは岩陰に身を潜めながらも、好奇心のまま人間を見つめたのだった。 静寂が支配する夜の海岸に、二人の男の姿があった。 月明かりが照らす二人の男は、まったく違った様子を見せている。 一人は焦った様子で浜辺を逃げていた。男は深手を負っているようで、時折転びそうになるが、逃げる姿は死に物狂いに必死なものだ。 そしてその男を追っているのはリボーンだった。 だが、追うといってもリボーンの足取りは悠然としたもので、そこからは結果を確信した余裕を感じさせる。 リボーンにとって、この追いかけっこは結果が見えたものなのだ。無駄な足掻きをする男に、リボーンの口元には嘲笑すら浮かんでいた。 逃げる男は「助けてくれ……っ」と乞うように叫ぶが、その命乞いはリボーンの嘲笑を深めるだけである。 「そろそろ諦めたらどうだ。鬼ごっこにはもう飽きたぞ?」 リボーンは冷めた声色でそう言うと、懐から銃を抜き、逃げる男の足を撃つ。 リボーンの正確な射撃に男は足を撃ち貫かれ、その場に崩れ落ちた。 男は痛みにのた打ち回りながらも「待てっ、待ってくれ……っ」と、自分を殺そうとするリボーンを制止しようとする。 「オ、オレを殺してもいいのか……っ、オレが死んだら、お前が聞き出したい情報も聞けないぞ……っ」 男は脅すようにそう言ったが、その形相は迫る死を目前にして恐怖に引き攣るものだった。 しかし、男の言葉にリボーンが耳を貸す事はない。 「そんな心配は無用だぞ。お前が話さなくても、別の奴を捕らえて話させればいいだけだ」 そう言ったリボーンの表情は酷薄なものだった。 リボーンの言葉に嘘は無く、命乞いをする男に対してリボーンが憐憫を抱くことはなかったのだ。 リボーンの銃口が男の眉間に向けられる。 「待てっ、オレが話すから待ってくれ……!」 「もう遅せぇ。俺が最初に話せと言った時が、お前にとって最後のチャンスだった」 リボーンのこの言葉は、男にとって最終宣告だった。 リボーンの指が銃の引鉄に掛かり、そして闇夜に包まれた海岸に一発の銃声が響く。 銃声と同時に、男の身体は死体となって浜辺に倒れる。 男は断末魔すら上げる事は出来なかった。リボーンの撃った銃弾が急所を貫き、死ぬ間際の表情のまま死んだのだ。 リボーンは足元に転がる男を一瞥し、僅かに眉根を寄せた。 だが、こうしてリボーンが表情を変えたのは男に対して同情を抱いたからではない。男が持っていた情報が少し惜しくなったからだ。 しかし、その惜しいという気持ちも直ぐに消え失せる。 情報が欲しければ、その情報を握っている者を捕らえれば良いだけなのだ。 「仕事を増やしたな……」 リボーンは面倒臭げにそう言うと、男の死体を片付けさせる為に死体処理班に連絡を取ろうとした。その時。 リボーンは浜辺から少し離れた岩場に妙な気配を感じ、瞬きのような早撃ちで銃を発砲した。それは条件反射のような威嚇射撃である。 「誰だ」 リボーンは殺気を滲ませた声色で言ったが、その声に応える者はいなかった。 海岸は闇夜の静寂に包まれたままで、威嚇射撃に何かが飛び出してくる事もなかったのだ。 リボーンは自分が感じた妙な気配に眉を顰めるが、しばらくしてポチャリと海の水が跳ねる音が響いた。 それは魚が海面で跳ねる音に似ており、「……魚か?」とリボーンは銃を懐にしまう。 妙な気配も消え去り、岩場には誰もいないと判断したのだ。 こうしてリボーンは、先ほどの妙な気配に引っ掛かりを覚えながらも海岸を後にしたのだった。 「び、びっくりした……っ」 リボーンが海岸から立ち去ると、ランボは海面からひょっこりと顔を出した。 ランボは驚いた表情で、リボーンが立ち去った海岸を見つめる。 ランボは、二人の男が海岸で何をしていたか分からない。浜辺には男が倒れたままでいるが、人魚であるランボは浜辺に確かめに近づく事が出来ないのだ。 倒れている男も気になるが、それよりも今は立ち去った男が気になっていた。 「綺麗な顔だったな……」 ランボは、先ほどの男のことを思い出す。 黒のスーツを着た男は闇夜に溶け込むような黒で、全てを闇色に染める夜の印象をランボに残した。だが溶け込むような黒でありながらも、月明かりに照らされた容貌は触れがたいほど端麗で、一度目にしてしまえば脳に刻み込まれるほどのものだった。男が纏っていた雰囲気も凍てつく氷のように怜悧なもので、圧倒的な威圧感すら感じられる。 そう、男は夜のような静謐さと同時に、目にした者の心を一瞬で捕らえてしまう存在感を持っていたのだ。 そしてランボも男を目にした瞬間、一瞬にして心を鷲掴みされたような心地になってしまった。 ランボは、男の余韻に浸るかのように男がいた海岸を見つめる。 だが、しばらくして「そうだっ」と何かを思い出したような声を上げた。 「そういえば、何かが岩を弾いたような……」 ランボは、先ほど岩場で起こった不思議な現象を思い出したのだ。 不思議な現象とは、男がランボに気が付いた瞬間に起こった。 隠れている時に、パンッ! と乾いた音が響いたかと思うと、岩に何かが当たって弾けたのである。 あれは何だったんだろう? とランボは岩場周辺をきょろきょろと見回す。 本来なら闇夜の中で探し物をする事は困難なことであるが、海で生活する人魚は夜目が利くのだ。 ランボは岩が弾いた場所を確認すると、その周辺を念入りに探しだす。 しばらく探し続け、ランボは「あっ」と嬉しそうな声を上げた。 積み重なった岩の隙間に、見慣れぬ物が嵌っていたのだ。それは小指の先ほどしかない小さな物で、ランボが初めて目にする陸の世界の物である。 ランボは細い小枝などを使って隙間から穿り出すと、それをそっと手に乗せた。 「何かの金属みたい」 これが何か分からず、ランボは首を傾げた。 大きさは小指ほどしかないもので、形は先が尖った丸である。全体的に丸みを帯びた形状をしたそれは、どうやら金属のような物質で出来ているようだ。今は表面が焦げているようで少し黒くなっているが、元々は光沢のある金色をしていたようだった。 そう、これは銃弾である。しかし銃弾を知らないランボからすれば、これは只の金属の塊だったのだ。 ランボは初めて見た金属の塊に興味を抱き、それを月の光に翳してみたり、海水に浸してみたりする。 そんなランボの姿は、元々陸上の物をコレクションしている事もあって興味津々なものであったが、こうして真剣になるのは、これはあの男が持っていた物だという事も拍車をかけていた。 ランボは金属の塊を凝視し、物珍しいそれに表情が楽しげなものになっていく。そして。 「オレ、決めたっ」 そして、何か良い事を思いついたようにパッと表情を輝かせた。 「陸の世界に行ったら、あの人を探そう!」 三日後の満月の夜、ランボは一定期間だけ人間の姿でいられるようになるのだ。一時的に人間になる事は楽しみであったが、それと同時に大きな目的が無いまま陸の世界へ行くことは不安だった。 でも、そんな不安を拭う目的は出来た。 陸の世界へ行ったら、あの人に会いにいこう。 会ってどうするかなど決めていないが、取りあえずランボの目的になった。 ランボは手の平の金属を握り締める。 陸の世界で名前すら知らない人を探すことは無謀だと分かっているが、きっとこの金属の塊が手掛かりになってくれるだろう。 陸の世界を知らないランボは、自分が手にした金属の意味も知らず、ましてや陸の世界のルールも知らず、夢見心地に「きっと会える筈だ」と信じたのだった。 三日後の夜。 夜空には雲一つ無く、闇夜を照らす満月だけが輝いていた。 今夜の満月は怖いほど強く輝いている。しかしだからといって、月の光が穏やかさを損なうことはない。月光は蒼白く、淡く柔らかな光で地上を照らすのだ。 こうした満月の光に照らされる中、海岸の岩場にはランボの姿があった。 ランボは岩場に座り、下半身の尾を海に浸したまま満月を見上げる。 「今夜だ」 不安と期待に彩られた小さな呟き。 その呟きは小さなもので、波の音に簡単に掻き消されてしまう。 だが、音は消されてしまっても、月を見上げるランボの表情にはそれが色濃く残っていた。 そう、ランボは今夜の満月より一定期間だけ人間の姿になるのだ。その期間は次の満月までという三十日間の短いものだが、それでも人間になる事が初めてのランボにとって不安は大きなものである。 でも、人間になってあの男に会おうと決めている。 人間になっても行く宛てなく彷徨うことは寂しいが、目的があるから少しは安心だと思えた。 ランボは、握っていた金属の塊を見つめる。 これを手掛かりにして男を捜すのだ。会ってどうするかなど決めていないが、それでもこれがランボの目的だ。 ランボは自分を勇気付けるように金属の塊を強く握り締め、夜空で煌々と輝く満月を見上げた。 そして、海に浸していた下半身をゆっくりと海から陸へと上げる。 陸に上がった事で、翠を帯びた銀色の尾が満月に照らされる。月光を受けたそれは、半身に銀色のヴェールを纏ったようにも見えるもので、仄かに輝いているようであった。 こうして陸に尾を上げたランボを、海から吹き抜ける夜風が優しく撫でていく。 ランボはその風を全身に受け、不思議な心地で一杯になった。 「嘘みたいだ……」 夜風は濡れていた尾を乾かしていく。 本来、尾が乾いてしまうと人魚は死んでしまうのだ。昨日までは、尾が空気に触れるだけで焼けるような痛みを感じていたのである。 それなのに今、尾が空気に触れても、夜風に吹かれても痛みを感じることはなかった。それどころか風に吹かれる感覚を心地良く感じていたのだ。 空気に触れた尾が乾いていく。 乾いていくのと同時に、ランボの下半身が人間の足へと形を変えていく。 ランボは、自分の下半身が変化する光景を静かに見つめていた。 風に撫でられた箇所から形を変え、ゆっくりと人間の足へと変化していったのだ。それはまさに神秘ともいえる光景だろう。 下半身が変化を終えると、ランボは人間の足に恐る恐る触れてみる。 変化した両足は、肌理細かで柔らかな肌をしていた。すらりと長い両足は形が整っており、月明かりの下で露わになった乳白色の素足は、見事な曲線を余すことなく見せ付けるものだったのだ。 ランボは自分自身の変化を信じ難く思いながらも、両足に力を入れてゆっくりと立ち上がってみようとする。 慎重な動作は焦れったいほどの警戒に満ちたものだが、ランボにとって足で立つという動作は初めてのものなのだ。 「立てた……」 ランボは驚愕に目を見開く。 地面に立つという感覚は不思議なものだった。 普段は水を蹴っている下半身が、地上では身体を支える力強さを発揮している。その感覚は初めてのもので、足の裏に感じる大地の感触に少しくすぐったい心地になった。 ランボは自分の足で地上に立ち、ぐるりと周囲を見回す。 「……これが陸の世界」 今、ランボの視界に映る世界は、今まで海から見てきた陸の世界とはまったく違うもののように見えた。 遠くにはネオンと呼ばれる人工的な光の大群が見え、そこからは騒音と雑踏が響く。それはけたたましい騒がしさで、今のランボにとって不安を煽るものでしかなかった。 こうして初めて見た陸の世界にランボは怖気づきそうになるが、それでも海へ戻ろうとは思わない。 人間でいられるのは一定期間だからと自分を慰めた事もあったが、それ以上にあの男にもう一度会いたいという気持ちの方が強かった。 どうしてあの男にこんなに拘るのか自分でも分からないが、もう一度だけ会ってみたいと思ったのだ。 ランボは握り締めている金属の感触に安堵を覚えると、慣れない足に苦戦しながらも前へ進みだしたのだった。 こうしてランボは、十五年間過ごした海に一時の別れを告げ、地上の世界へと一歩踏み出したのだった。 第二章・人魚と銃弾 右に人間、左にも人間、もちろん前と後ろにも人間。 ランボは周囲を見回し、人間のあまりの多さにひたすら驚いていた。 人間の姿になって海から陸に上がったランボは、取り敢えず人間が大勢いるという街という場所を目指した訳だが、まさかこんなにたくさんの人間が行き交っているとは思わなかった。 陸に上がったランボは、陸上に生息する草木や動物、人間の手によって造られた建造物や乗り物など、初めて目にする陸の世界に驚き続けていたが、一番驚いたのは人間の多さだったのだ。 仮とはいえ人間になった今、今まで一人で生きてきたランボにとって、同じ種族の仲間がたくさんいるという事が不思議だったのである。 「不思議な感じがする……」 空を見上げれば普段と変わらぬ太陽がある。でも、ランボが今いる場所は人間の街だ。 人間というものは容姿はそれぞれ違っているが、二本の腕があり、二本の足があり、陸の世界で自由に暮らしている。 そんな人間達を前に、ランボは極力違和感を与えないように気を付けていた。僅かな期間とはいえランボは人間になったのだ。それならば、人間の生活に順応していかなければならないだろう。 だが。 「なんか変かも……?」 ランボは自問するようにぽつりと呟いた。 街に入ってからというもの、ランボは自分が痛いほど視線を向けられている事に気が付いていた。 擦れ違う人々は、ランボを目にするとギョッとしたような表情になったり、遠巻きに凝視したり、酷い者などは指をさしてクスクスと笑っていたのだ。 ランボに浴びせられる視線は驚愕と嫌悪といったもので、そんな人々の様子は一様に珍しいものでも見ているかのようである。 そんな人々の視線にランボはムッとした。 違和感無く人間達に溶け込もうとしているのに、何が可笑しいのか分からなかったのだ。 ランボは自分の身体を見下ろし、人間と同じ二本足がある事を確かめる。それは本当の人間と同じ形をしており、今のランボを人魚だと思う者はいない筈だった。 こうして人間の姿をしている自分に安堵したランボは、だからこそ気が付いていない事があった。 そう、ランボに向けられる奇異の視線は、人間としての姿形に向けられているのではなく、今の格好にあったのだ。 そもそも人間になったランボが海岸を離れたのは朝日が昇ってからだった。 本当は夜のうちに離れたかったが、慣れない歩行に苦戦し、最初はまともに歩くことすら出来なかったのだ。その為、ランボはしばらく夜の浜辺で歩行の練習をしていたのである。 だが、その時のランボの姿は全裸という姿だった。 人魚は元々全裸の為、ランボは全裸でいることに躊躇いはなかったのである。しかし、さすがに陸の世界に上がったのなら隠さなければならないだろうと気が付いた。 そこまで気が付いたランボは、身体を隠すために思案した。そう、この隠そうとする思考までは良かったのだ。しかし。 しかし、ランボは衣服に対する知識が乏しかった。 ランボは海岸に落ちていた船のマストの残骸を拾い、それを身体に巻きつけただけの格好になったのである。 そんな格好の男が街を歩いているだけでも注目を集めるというのに、それを更に煽っているのがランボの容姿だった。 長い睫に縁取られた翡翠の瞳は垂れた目尻と相俟って可愛らしい印象を与え、鼻筋やふっくらとした唇も整っている。こうした容姿もさることながら、何よりも人目を引くのがランボ自身が纏う雰囲気だった。くるくると変わる表情は幼さを感じさせるが、ふとした瞬間に見せる憂いの表情はハッとするような色香を纏っていたのだ。 しかもランボは、今まで一人で生きてきた事もあって自分の容姿を意識した事がなく、自分が人並み以上に整った容姿をしている事に気が付いていなかった。 だが、例えどんなに容姿が整っていたとしても、裸同然で街を歩けば奇異の視線を集めるものである。 ランボは視線の意味が分からず「人間って何か失礼だ」と思ってしまうが、周囲の者からすれば「変質者?」と眉を潜めるものだった。 こうして理由が分からずに奇異の視線を集めてしまうランボは、内心でムッとしながらも不安に怯んでしまいそうになる。 しかし、弱気になる気持ちを奮い立たせるように、海を上がった時から握り締めている金属の塊に視線を向けた。 金属の塊を見つめ、これがあるから大丈夫だ! とランボは自分に言い聞かせる。 自分が陸の世界に上がったのは、興味と好奇心があったからというのが大きいが、この塊を持っていた男を見つける事も目的なのだ。 ランボは自分を勇気付けると、男を探す為に歩き出そうとするが、その時。 「すいません。少し宜しいですか?」 不意に、ランボは背後から男に声を掛けられた。 突然声を掛けられ、ランボは思わず「わっ」と驚いた表情で男を凝視してしまう。陸の世界に上がってから、ランボは初めて人間に声を掛けられたのだ。 「な、なに……?」 「警察です」 男はそう言うと、スーツの懐から手帳のようなものを取り出した。 「……警察?」 ランボは警察の意味が分からず、不思議そうな面持ちで首を傾げる。 そんなランボの反応は警官の男にすれば予想外のものだった。だが、警官は怯むことなくランボの腕をがっしりと掴んだ。 「街に不審者がいると通報が入りました。貴方に公然わいせつ罪の疑いがありますので、署まで同行を願います」 警官は厳しい口調でそう言うと、ランボを強引に引っ張って歩き出す。 その有無を言わせぬ行為に、ランボは「ま、待って! なんで? どこに連れてくの?!」と慌てだすが、警官が聞き入れる筈が無かった。 こうして、抵抗する事も出来ずに警官に連れて行かれるランボ。 ランボが陸の世界に上がって一番最初に経験した事は、警官に連行される事だったのであった……。 警察とは人々の安全を守り、街の治安維持に尽力する機関である。 当然ながら、街中の警察署ともなればたくさんの人々が出入りし、署内のフロアは一般人やそれに対応する警官でごった返したものになっていた。 だがそんな喧騒は一階のフロアだけで、二階からは各部署室や取調室などが並んでいる。その取調室の一角に、警察署に連行されたランボはいるのだ。 しかし一角といっても、取調室の中にいる訳ではなかった。 現在、幸か不幸か取調室は全て使用されており、ランボがそこに入れられる事はなかったのである。 ランボが入れられたのは、エレベーターホールの隅に衝立を立てて造られた即席取調室だったのだ。本来なら有り得ないことなのだが、取調室が満室だからといって無罪放免にできる筈はなく、これは緊急処置のようなものだった。 こうした即席の取調室でランボは身元を訊かれ、事情聴取をされている訳だが。 「名前はランボで、住所は海、だと? ……頼むから、ちゃんと答えてくれ」 取調べをしている警官は、ランボの身元が記入された書類を読み上げると疲れたような溜息を吐いた。 ランボの事情聴取が始まって一時間ほどが経ったが、警官が理解できた事は「ランボ」という名前だけで、後は「海から来た」だの「次の満月までだから」という理解できないことばかりだったのだ。 最初はランボの悪ふざけだと警官は思っていたが、悪ふざけにしてはランボの態度は真剣そのもので、とても嘘を吐いているようには見えなかった。 しかし理解出来なければ話が進まない事もあり、警官は「妄想癖でもあるのか?」と思いつつ一時間ほどランボと押し問答を繰り広げていたのである。 「海から来たなんて、まるで人魚だな……」 警官は疲労を見せながらも、書類を片手に軽い冗談を口にした。 だが、その冗談にランボはピクリと反応する。 「そうだよ。オレ、人魚だし」 よく分かったね、とランボは明るく笑う。 そんなランボの口調は軽いもので、人魚である事を隠す必要性をまったく感じていないものだった。 そう、ランボのこの言葉は嘘ではないのだ。 しかし、現代社会において人魚などという空想の生物を信じる者など稀だった。 警官はランボの言葉に一瞬呆気にとられたが、直ぐに声を出して笑いだす。 「おいおい、冗談はよせ」 警官はそう言って軽く笑い流し、からかうように言葉を続ける。 「それに今は人魚っていうより、牛って感じだぞ?」 そう言った警官は、ランボの今の格好を見てまた笑いだした。 警官が笑うランボの今の格好は、牛柄シャツにジャケットを羽織り、ズボンはジャケットと同系色に合わせたものという、妙なコーディネートだったのである。 だが、その服装は警察側が用意したものだった。 連行された当初、ランボは全裸にマストを包んだだけの状態であり、とてもそのままにしておけるような姿ではなかったのである。そこで警官は、宴会の出し物に使った牛柄シャツを引っ張り出し、何も着ていない状態よりはマシだろうと着せたのだ。 「笑うなよっ、これはあんた達が用意してくれたものだろ? それにオレ、これ気に入ったもん」 ランボはムッとした表情で言い返すと、嬉しそうに牛柄シャツを見下ろした。 このコーディネートは普通の人から見れば着用することを躊躇ってしまうものだが、ランボは牛柄シャツに一目惚れしてしまったのだ。 このシャツを見た時、「人間の世界には、こんな素敵な服があるなんて!」と感動すらしてしまったほどである。 牛柄シャツに満足しているランボは、これを貶されるなんて心外だった。 こうして怒るランボに警官は苦笑しつつも「悪かった」と軽く謝ると、脱線してしまった取調べを軌道修正しようとする。 「それで事情聴取の続きだが、そろそろ本当の住所を言ったらどうだ?」 警官の本音を言えば、今まで何度も繰り返している問答に疲れていないといえば嘘になる。だが、これが警官としての職務なのだ。発展性のない無駄な問答であるが行わなければならない。 警官が内心で「長期戦になるな……」と覚悟を決めて取調べに臨もうとした時。 「失礼します。その方の戸籍の件ですが……」 不意に、衝立の隙間から別の警官が顔を覗かせた。 別の警官はランボの戸籍を調べていたようで、その結果がようやく出たのである。 ランボの取調べを担当していた警官は「ちょっと待ってろ」とランボに言うと、別の警官が持ってきた書類に目を通した。そして。 「戸籍が……無い」 書類を読んだ警官は、驚いた様子で目を見開いた。 人魚であるランボに戸籍などある筈ないのだが、それを知らない警官は驚きを隠しきれなかった。戸籍が無いという事は、それだけで事件性に繋がっているといっても過言ではない。 今までのん気に進められていた取調べだが、戸籍が無いという事実が取調べの雰囲気を変える。最初は変質者の類いだと思われていたが、事件性が垣間見えると判断されたのだ。 「おい、どうして戸籍が無いんだ? 出身地は何処だ? 国籍は?」 「戸籍? 国籍?」 警官に畳み掛けられるように質問され、ランボは訳が分からず首を傾げる。 戸籍や国籍など、ランボには意味が分からないのだ。 警官は真剣な面持ちでランボを問い詰めるが、ランボはきょとんとしたまま首を傾げるだけである。しかも警官達の質問など無視して、「それより」とズボンのポケットからある物を取り出した。 「ねぇ、これの持ち主を探してるんだけど、知らない?」 そう言ってランボが取り出したのは、金属の塊。そう、陸の世界では銃弾と呼ばれるものだった。 「なっ、銃弾っ」 ランボが突然取り出した銃弾に、警官の表情が更に一変した。 「戸籍が無い挙げ句、銃弾所持……!」 「銃弾? そっか、これは銃弾っていうのか」 謎が謎を呼ぶ展開は最悪な方向に転がっているのだが、自覚が無いランボは金属の名称が知れて嬉しそうである。 しかし、そんなランボを置いて事態は進みだした。 「鑑識が必要だな。その銃弾をこっちへ渡しなさい」 「えっ、そんなの嫌だよっ」 銃弾を渡せと言う警官に、ランボは慌てた様子で銃弾を握り締めた。 これはランボにとって大切な物なのだ。銃弾はあの男へ繋がる手掛かりという事もあったが、それ以上に易々と手放したくないと思ってしまった。 だが、素直に銃弾を渡さないランボの態度は、警官からすればますます不審を高める姿である。 「その銃弾には何か知られたくない理由でもあるのか? 渡しなさいっ」 「嫌だ! 知られたくない理由なんて無いよ、オレは拾っただけなんだから!」 「拾っただけなら渡せるだろう?!」 「渡せない!」 この場所は人の行き来が多いエレベーターの前なのだが、それを忘れてランボと警官は互いに声を荒げていく。 騒がしさは注目を集め、いつの間にか取調室の周りには警察関係者の者達で人垣ができていた。衝立があるとはいえ即席だけあって、衝立は役目を果たさずに外からは丸見えなのだ。 こうして騒ぎが大きくなる中、不意に、周囲にあった人垣がざわりと揺れた。そして。 「――――何の騒ぎですか?」 そして、その一声で騒がしかったエレベーター前がシンッと静まり返る。 静まり返った中、一人の男がゆっくりとした足取りで人垣を抜けて姿を現した。 「ボンゴレ十代目……っ」 男を見た瞬間、取調べをしていた警官が驚愕に目を見開いて慌てて背筋を正す。周囲の人垣も一様に背筋を正し、畏怖を籠めた眼差しを男に向けていた。 「びっくりしたよ。エレベーターを降りてみれば人垣が出来ていたんだから」 ボンゴレ十代目と呼ばれた男が苦笑とともにそう言えば、警官達は「申し訳ありませんっ」と焦りだす。 そんな警官達に男は「謝らないで、職務ご苦労様」と労うと、次にランボに視線を向けた。 ランボは男と目が合い、少し緊張した面持ちになってしまう。 男が現れてからというもの、騒がしかった取調室が静まり返るだけでなく、警官達の態度が明らかに変わったのだ。それに触発されるようにして、ランボも無意識に背筋を正してしまった。 だが、警官達は男に畏怖の眼差しを向けているが、ランボが男に感じた印象はそれと似ても似つかないものだった。 ランボの目には、この男がとても優しく穏やかな人間に見えるのだ。 今も男はランボに奇異の視線を向けることはなく、優しい眼差しを向けてくれている。 「彼に何かあったの?」 「不審者として連行したんですが、戸籍も無いうえに銃弾所持も発覚したので取り調べているところですっ」 男がランボのことを訊ねると、警官は礼儀正しく答えた。 「銃弾? 悪いけど、オレにも見せてもらえないかな?」 銃弾と聞き、男は「いいかな?」とランボに優しく訊く。 ランボは先ほど銃弾を取り上げられそうになった事もあって躊躇いを覚えてしまったが、男に向けられる微笑はとても穏やかなもので、戸惑いつつも握っていた手を開いた。 「これは……」 銃弾を見ると、男は少し驚いたように目を見開いた。 だが驚きの表情は、直ぐにイタズラを企む子供のような表情に変化する。 男は面白そうに目を細めると、取調べの警官を振り返った。 「今思い出したんだけど、彼はオレの知り合いだったよ」 これは明らかな嘘である。 海から上がったばかりのランボに、人間の知り合いなどいる筈がないのだ。 しかし男は穏やかな笑顔のままで嘯くと、「オレが彼の身元引受人になるよ」とランボを引き取る事を決めてしまった。 そんな突然の発言に驚くのは、ランボを含めた周囲の者達である。 ランボは急な展開に付いていけず唖然としたまま男を凝視していたが、先に反応したのは警察関係者達だった。 「そんなっ、ボンゴレ十代目にこんな怪しげな男を引き取ってもらう訳にはいきませんっ」 警官達は口々にそう言うが、男は「大丈夫ですよ」と頑として引き取る事を譲らない。 「彼を引き取る事で不都合が生じるなら言ってください。必要なら弁護士を用意します」 しかも男は弁護士まで用意すると言い、これ以上の反論は聞き入れないとした。 そんな遣り取りをランボは呆然と見ていたが、このままでは身も知らぬ男に引き取られてしまうと気付いて慌てて口を開く。 「あ、あの……、オレはあんたの事を」 知らないんですけど、とランボは続けようとした。 しかし、それを遮るようにして男は「さあ、一緒に行こう」と笑顔で促したのだ。 男は笑顔を浮かべているが、その言葉には有無を言わせぬ迫力がある。 その迫力に怖気づいたランボは、困惑しながらも付いて行かざるを得なかった。 だが、歩きながらも内心では困惑と戸惑いで一杯である。 警察署という場所から出られるのは嬉しいが、まさかこんな形で出ることになるとは思わなかったのだ。 「あ、あの……」 ランボは自分を連れ出す男に声を掛ける。確か、男はボンゴレ十代目と呼ばれていた。 「あの、ボンゴレ十代目はどうしてオレを……?」 「オレの名前は沢田綱吉だよ。ツナでいい」 「えっ、でも他の人達はボンゴレ十代目って呼んでましたよ?」 ランボは、どうして名前が二つもあるんだ? と首を傾げてしまう。 しかも他の人達はとても敬うような態度を見せていたのだ。それだけで、人間世界のことはよく知らないランボでも「偉い人なのかな?」と思える。 「それじゃあボンゴレでいいよ。それよりランボ、その銃弾なんだけど」 ボンゴレと呼ばれる事で納得した綱吉は、ランボが持っている銃弾に話を戻す。 銃弾の件はランボも望む話で、「なんですか?」と勢い込んで聞き返す。綱吉の話す内容が、銃弾の持ち主への手掛かりに繋がるだろうかと期待したのだ。 「銃弾の持ち主に会いたいんだよね。会わせてあげようか?」 「え……?」 綱吉の言葉はランボの期待以上だった。 否、手掛かりの期待など通り越して既にゴールである。 「会わせてくれるって、そんな……」 綱吉の思わぬ言葉に、ランボは驚きが隠しきれない。 まさかこんなに早く男に会えるとは思っていなかったのだ。 驚き過ぎて黙り込むランボに、綱吉は「会いたくないの?」とニコリと笑う。 「い、いえっ、会いたいです!」 会いたくない筈がない。それを目的にしてランボは陸に上がったのだ。ただ、ランボは驚き過ぎて急な展開についていけないだけである。 しかし展開についていけないランボを置いて、綱吉は話を進めていく。そして。 「それじゃあ一緒においで。連れてってあげるよ」 そして、笑顔でランボの目的を叶えようとしてくれるのだった。 警察署を出たランボは、胴体の長い黒塗りの乗用車に乗せられていた。 初めて自動車に乗ったランボは、発進した時など「動いた!」と大はしゃぎして綱吉を驚かせたのだ。 現代社会において自動車とは移動手段として常識であり、それを知らなかったランボに綱吉は不審を覚えた。 しかしランボは不審を抱かれた事に気付いておらず、今は初めての車に高揚するばかりだ。しかも感激した様子で車窓の景色を眺めだしたり、信号一つにも驚く姿などは綱吉の不審を深めるものだった。 だが、綱吉は抱いた不審を追求する事はなく「楽しそうで良かったよ」と笑顔を見せる。ランボの身元引受人になった今、不審や疑惑などを追求する機会はたくさんあるのだ。そしてそれ以上に、車に乗れたというだけで屈託ない笑顔を見せるランボに、無粋な疑問を投げかけたくないと思ってしまったのである。 こうしてランボを乗せた車は街を抜け、そのまま郊外に入っていった。 街の喧騒が届かぬ郊外は草木に囲まれ、緑豊かなそれはランボの目を楽しませる。 ランボは車窓の流れる景色を飽きることなく見つめていたが、ふと、外の緑が色濃くなっていっている事に気が付いた。 車は郊外の山林に入り、緩やかな傾斜の坂を上りだしたのだ。 山間部に入っていく車に、ランボは少し不安そうな顔になる。 今まで眺めていた街の景色と山間部の景色は、その景観がまったく違うものなのだ。しかもランボは海には慣れ親しんでいるが、山間部は想像すらした事がない場所なのである。 「ボンゴレ……」 ランボは不安気な視線を綱吉に向けた。 だが、綱吉はニコリと笑うだけである。 「ランボをオレの屋敷に招待するよ。大丈夫、悪いようにはしないから」 そう言った綱吉の笑顔は穏やかなもので、ランボを宥めるものだ。 その宥めにランボは微かに安堵の笑みを浮かべると、視線をまた車窓の景色に戻す。慣れない陸の世界は不安が多いが、この綱吉という男なら信じられると思えたのだ。 こうして車は山林を進み、しばらくして車窓を眺めていたランボの視界に荘厳な建造物が映った。 山林に生息する木々の合間から見えるそれは、中世の古城のような造りをしている。それは古い建造物でありながらも威厳と風格を兼ね備え、現在においても威信と権力と財力を内外に見せ付けるものだった。それは近寄り難さすら感じさせる重厚さがあったが、ランボを乗せた車は躊躇わずにそこへ向かっていく。 「大きい……っ」 近づく古城のような屋敷を見つめ、ランボは唖然とした様子で呟いた。 そんなランボに、綱吉は「あれが屋敷だよ。もう直ぐ着くからね」と教えてくれる。 あれが目的地だろうと何となく分かっていたが、正式にそうだと言われてランボは驚きを隠し切れなかった。 警察署に綱吉が現れた時も「偉い人なのかな?」と思っていたが、どうやら本当に偉い人のようなのだ。 ランボは少し緊張してしまうが、今からあのような立派な建造物の中に入れるのかと思うと気持ちが高揚した。 海で生活していたランボにとって建造物自体が既に珍しい物だというのに、あんな立派な建物の中に入れるのだと思うと嬉しくなったのだ。 こうしてランボを乗せた車は、要塞のような屋敷の門を潜ったのだった。 屋敷に通されたランボは、綱吉の後に続いて長い廊下を歩いていた。 歩くといっても、ランボは先ほどから屋敷の中を寄り道ばかりしている。 毛足の長い赤絨毯が敷かれた広い廊下もさる事ながら、屋敷内を飾る美術品や調度品、内部構造など全てがランボにとって珍しかったのだ。 その為、屋敷の奥にある綱吉の執務室に辿り着くまでに長時間を要し、綱吉はただ苦笑しているしかない。 「ランボ、早くおいで。こっちだよ」 そしてようやく執務室の前まで来ると、綱吉は廊下をうろうろしているランボを呼び寄せた。 「ここですか?」 「そう。此処はオレの仕事部屋なんだけど、此処にリボーンがいるよ」 「……リボーン?」 初めて聞く名前に、ランボはきょとんとした様子で訊き返した。 そうしたランボの様子に、綱吉は「ああ、まだ名前を教えてなかったね」とランボが会いたがっている男の事を教えてくれる。 「ランボが探している男の名前だよ、彼はリボーンっていうんだ。リボーンはオレの元家庭教師でね、少し怖いかもしれないけど大丈夫だから」 綱吉はそう言って執務室の扉を開けて中に入っていく。ランボもそれに続いて執務室に足を踏み入れたが、その瞬間。 ――――カチッ。 ランボの背後から、硬く冷たい物が後頭部に押し付けられた。 「え……?」 突然の事に、ランボは驚いてぴたりと足を止める。 「お前、どこで俺の銃弾を拾いやがった」 「銃弾……」 銃弾という言葉に、ランボはまさか……と背後を振り返った。 そして、ランボが目にした人物は、ランボが海から陸へと上がる決心を固める切っ掛けになった人。 そう、リボーンだった。 「あんたが……リボーン……っ」 その姿を目にした瞬間、ランボは大きく目を見開く。 会えると分かっていたが、こうして実際に会ってみると本当に会えたのだと実感が込み上げてきたのだ。 ランボは、言葉に出来ない思いが込み上げて思わず涙ぐんでしまう。三日前の夜から、もう一度会いたいとずっと願っていたのだから、この再会が嬉しくて仕方が無かった。 だが、実際に再会だと思っているのはランボだけである。 何故なら、三日前の出会いもランボの一方的なもので、リボーンはその存在すら気付いていなかったのだから。 その為、嬉しさで涙ぐむランボの反応は、リボーンにとって不審以外のなにものでもない。 「俺はお前なんか知らねぇぞ。会ったこともない。お前は俺を何処で知った?」 リボーンは眉を潜め、ランボの頭部に押し付けている銃の安全装置を解除する。 ランボに向ける銃は警告の意味である。それは答えねば撃つことも辞さないという意味であった。 だが、銃そのものを知らないランボは、銃口を押し付けられても恐怖などない。自分に死が迫っているという自覚すらないのだ。 そんなランボは、自分の頭部に押し付けられている銃を「邪魔なんだけど」と躊躇い無く退けてしまう。 リボーンから向けられた銃口を退けるなど普通では考えられない事であるが、ランボの行為はあまりに自然過ぎるものだった。 そう、これが銃という人殺しの道具と知っていれば、決して簡単に出来ない行為である。しかしその行為を他意無く行なってしまうランボは、本当に銃器というものを知らないのだと示したのだ。 こうしたランボに、リボーンの不審はますます深まっていく。 しかし、リボーンの不審を前にしてもランボが怖気づくことはない。それどころか、「当たり前だよ」とリボーンの不審を肯定した。 「オレが一方的にリボーンを見つけたんだから、リボーンはオレを知らなくて当然だって。でも……」 ランボはそこで言葉を切ると、ポケットから銃弾を取り出す。 「これはあんたのだよね。三日前、海岸で拾ったんだ」 「三日前の海岸……」 リボーンは三日前の海岸での事を思い出して眉間に皺を寄せた。 三日前の海岸という言葉で、ランボが持っている銃弾に合点がいったのだ。確かに三日前、リボーンは海岸で仕事をしている。その時に銃弾を何発か撃っているのも確かだ。発砲された銃弾を故意的に拾う事は難しいが、偶然拾ったとかならば有り得ない話でもない。 リボーンはそこまで思うと、空を仰ぎたい気分になった。何故なら。 「これはリボーンのミスだね」 今まで話を聞いていた綱吉が、面白そうな笑みを浮かべて横槍を入れた。 そう、仕事現場を第三者に見られていたのだ。失態以外の何ものでもない。 だが、それにしても奇妙である。気配に鋭敏なリボーンが第三者に気付かない筈がないのだから。 「おい、このアホ牛の身元は?」 リボーンは牛柄シャツを着ているランボを勝手に「アホ牛」と命名し、不機嫌な声色で綱吉に聞いた。 脇ではランボが「アホ牛って何だよ!」と食って掛かるが無視である。 そんな二人の様子に綱吉は苦笑するが、警察が調べていた調査結果を話しだす。 「彼の名前はランボっていうんだけど、分かっているのはそれだけなんだ。戸籍も国籍も分からなくて、ボンゴレでも調査してるけど結果は期待しないでほしい」 ランボ本人の前で身元不明だという話をする事は憚られたが、ランボはまったく気にしていないようで、綱吉は気にせずに現在分かっている事を話した。しかし分かっている事といっても、内容は身元不明だという事なので微妙である。 綱吉はリボーンにそれだけを話すと、「ところで」とランボを振り返った。 「ランボの事をどれだけ調べても分からない事ばかりなんだけど、今は何処で寝泊りしてるの?」 「寝泊り?」 突然話を振られ、ランボはきょとんとしてしまう。 ランボが今まで生活していた場所は海である。しかも誰の物でもない海は自由が基本だった。それを当然として考えていたランボは、何処で生活するか決まってないだけでなく、寝泊りする場所を確保するには何らかの手続きが必要という概念もなかった。 その為、あまり意味をよく分かっていないランボは「今は決まっていませんが、その辺で横になればいいかなって思ってます」と軽い調子で答える。 だが、その答えは綱吉が納得できるものではなかった。 「その辺って? 何処かのホテルにでも泊まるの?」 ホテルに泊まるには金銭が必要なのだが、綱吉はランボがそれを持っているとは思っていない。だが、住所不定の人間が屋根のある場所で寝泊りするにはホテルしかないのである。しかし。 「ホテルって何ですか? それに街はとても広かったですし、道路で寝ても大丈夫だと思うんですが……」 しかし、ランボの答えは綱吉の予想を遥かに超えるものだった。ランボはホテルの意味を分かっていないだけでなく、屋根の無い場所で寝ることに何の抵抗も持っていなかったのだ。 ランボの言葉を聞いた綱吉とリボーンは、内心で驚きを隠しきれない。そしてそれと同時に違和感を覚えてしまう。 綱吉やリボーンなど裏社会の人間にとって住所不定の人間は珍しいものではない。だが、ランボからはそういった人間が纏っている独特の雰囲気を感じなかったのだ。ランボは身元不明である事を隠そうとしないばかりか、それに疑問すら持っていないようなのである。 「あ、でも街では人の邪魔にならないように隅っこで寝ますね」 当然のようにそう言ってニコリと笑うランボ。 そんなランボの発言に慌てたのは綱吉だ。 「ち、ちょっと待って! それじゃあ困るよ!」 ランボの身元引受人として警察から連れ出したのは綱吉だ。それなのに、路上生活などされて警察に保護されれば、綱吉の管理不行届きで面目丸潰れである。 「そうだ! しばらくリボーンの所で暮らすと良いよ!」 綱吉は名案だと言わんばかりの口振りで言い切った。 しかし、この綱吉の名案にリボーンが黙っている筈がない。 「おい、勝手に決めてんじゃねぇぞ」 「勝手なことじゃないよ、元はといえばリボーンの銃弾が拾われたのが原因だろ?! まったく、警察にちょっと顔を出してただけなのに、リボーンの銃弾を持ってる子がいるからびっくりしたんだよね。保護してきただけでも感謝してほしいよ」 綱吉は捲くし立てるようにそう言った。 しかも綱吉の嫌味混じりの言葉はリボーン自身も認めている失態であり、それはリボーンの反論を封じるには充分なものだ。 リボーンは舌打ちすると、忌々しげにランボを睨む。 「とんだ拾い物だな。まさか牛の飼育をする事になるとは思わなかったぞ」 リボーンは吐き捨てるようにそう言うと、「寄越せ」とランボに手を出す。 いきなり寄越せと言われても、意味が分からないランボは「何を?」と首を傾げた。 しかし、そんなランボの反応さえも今はリボーンを苛立たせるだけで、リボーンの眉間の皺が更に増えてしまった。 「お前が拾った銃弾だ。俺が捨てておく」 そう言ってリボーンは「早くしろ」とランボを急かす。だが。 「嫌だ!」 捨てると言ったリボーンに、ランボは銃弾を渡す事を拒んだ。 ランボとしては、これは自分が拾った物であり、海に帰ってからコレクションとして保管するつもりなのだ。いくら相手が銃弾の本当の持ち主とはいえ、捨てると言っている人間に易々と渡すのは嫌だった。 「どうせ捨てるんだったら貰ってもいいだろ?!」 ランボは抗うようにそう言うと、銃弾を隠すように自分のポケットへしまった。 だが、そんなランボの行為をリボーンがお気に召す筈がない。 「アホ牛、殺されてぇようだな」 リボーンは低い声色でそう言うと、銃口の照準をランボに合わせる。 「俺が飼育するからには、それなりに躾られる事を覚悟しろ」 そう言って銃の引鉄に指をかけるリボーンは殺気を纏っており、ランボはビクリと肩を揺らす。 銃口を向けられる意味は分かっていないランボだが、不穏な空気を察することはできる。この人を怒らせるとヤバイかもしれない、と本能が警鐘を鳴らしていた。 「うぅ……っ」 威圧感を伴うリボーンの殺気を前に、背筋に冷たいものが走ったランボは思わず涙ぐんでしまう。自慢ではないがランボの涙腺は緩かった。 でも何としても銃弾を死守したいランボは、「殺される……っ」と半泣き状態で綱吉の背後にこそこそと隠れた。これは「この人なら守ってくれるかもしれない」という無意識の自己防衛である。 だが、負けず嫌いなところがあるランボは怯みながらもリボーンに食って掛かる事を忘れない。綱吉を盾にした状態で食って掛かっても迫力がないのは承知だが、黙っているのは何だか嫌だ。 「そんなに怒らなくてもいいだろ?! ――――次の満月になったらちゃんと出てくから!」 ………………。 なんで満月? それがランボの言葉に対する、綱吉とリボーンの共通の疑問だった。 「ランボ、どうして次の満月なの……?」 奇妙過ぎるランボの言葉の意味が分からず、綱吉は疑問を口にした。 その疑問に、ランボは何の躊躇いもなくはっきり答える。 「だってオレ、人魚ですから。次の満月で元に戻るんです」 ……執務室に沈黙が落ちた。 ランボは胸を張って答えたが、綱吉とリボーンの表情は唖然とするばかりだ。 そしてこの沈黙は、リボーンによって破られる。 「おい、アホ牛は俺のところより病院に入れた方がいいぞ」 リボーンの言葉に、綱吉は「あはは……」と乾いた笑みを浮かべる事しか出来ない。 先ほどのランボの発言は、綱吉ですら簡単にフォローできるものではなかったのだ。 「……リボーンの気持ちも分かるけど。まあ、そう言わないでよ」 綱吉は乾いた笑みを浮かべてそう言うと、ランボを振り返る。 「ランボ、人魚っていうのは、あの人魚のことかな……?」 人魚とは、一般的に考えて空想上の生物である。それは多くの人間が常識としている事だ。 それなのに自分を人魚だと言うランボに、綱吉は「……ふざけてるのか?」と少し頭が痛くなる。 しかし、ランボは「人魚は人魚ですよ。知らないんですか?」と当然のように言い切ったのだ。 こうしたランボの様子に、綱吉とリボーンは一瞬目を合わせる。そして。 「リボーン、例の件を調べたんだけど、密輸の線からは外れそうだよ。はっきりした事は分かってないけど、取り敢えず密輸じゃなくて良かった」 「そうか、だが海上で不穏な動きがあるのは確かだ。調査を続行させろ」 綱吉とリボーンの二人は、ランボの話を聞き流すことにした。 二人は人魚を信じるような夢見る年齢ではないのである。ランボの言葉を鵜呑みに出来る筈がなかったのだ。 「あ、無視した!」 聞き流した二人に、ランボはムッとした様子で声を荒げた。 だが、二人は敢えて相手にせずに仕事の話を続ける。横でランボが「無視するな!」と怒っているが無視だ。 「海といえば密輸の線が濃かった訳だけど、他の理由があるなら何だと思う?」 「さあな、捕まえた関係者は始末したから俺にも分からねぇぞ」 リボーンの言葉に、綱吉は「リボーンは短気で困る」と苦笑する。しかし言葉とは裏腹に、本気で困っていなさそうな表情だ。 「例えあいつを喋らせていたとしても、物証がない限りは嘘を吐かれても判断できないぞ。それなら、見せしめになって丁度良かっただろう。次に捕らえた奴に喋らせればいい」 悪びれなくそう言ったリボーンは口元に薄い笑みを刻んだ。 二人が話している仕事の件とは、リボーンが三日前の海岸で遂行したものである。 最近、海上で不穏な動きを見せている組織がある事が判明したのだ。 その組織には謎が多く、組織の本部らしき建物が港近辺にも建設されたのである。最初は裏社会の組織が密輸行為を行っているのかと思われたが、最近出た調査結果でそうでは無いという事が分かってきた。それならばいったい何の組織なのかはまだ分かっていないが、ボンゴレはそれについて現在調査しているのである。 そして三日前の海岸で行なっていたリボーンの仕事は、関係者を捕らえて組織の秘密を話させる事だった。しかしリボーンは男が話す前に始末したのである。男を始末したのも表向きは男が話さなかったという事にしているが、組織にボンゴレが動いている事を知られる訳にはいかなかったというのが本当だった。 こうして三日前の仕事は男を始末した事で完了したが、仕事現場をランボに見られていたという事がリボーンの唯一の失態だったのだ。 二人は、横で「オレは本当に人魚なんだって!」と喚いているランボを放って、現在分かっている情報を纏めていく。 こうした時間が過ぎる中、ふと執務室にノックの音が響いた。 「失礼します。ボンゴレ十代目、お客様がお見えになりました」 ノックをしたのは綱吉の部下だった。 部下は客の来訪を知らせにきたのである。 だが、客の来訪に綱吉は「あれ?」と首を傾げた。今日は客が来訪する予定など入っていなかったのだ。 「アポイントは無いよね」 「はい。ですが、どうしてもボンゴレ十代目にお会いしたいと、屋敷の前から立ち退く様子を見せないんです」 アポイントも無しに会いたいという客に、綱吉は「誰だろう?」と不審気に眉を顰める。 巨大組織であるボンゴレファミリーのボンゴレ十代目に面会を望む者は多いが、屋敷は一般の者が易々と近づける場所ではないのである。それを押してまで綱吉に会いたいという客に、綱吉は少し興味を持った。 「分かった。知らせてくれて有り難う、会ってみるよ」 「分かりました。それではお連れします」 綱吉が会う事を許可すると、部下は客を連れてくる為に執務室を出て行った。 部下を見送った綱吉は、「という訳で、ごめんね」とリボーンに小さく謝る。客と面会する事になり、仕事の話はここで打ち切りなのだ。 リボーンは勝手な綱吉に舌打ちするが、「仕方ねぇな」と諦める。ボンゴレ十代目である綱吉が会うと決めたなら、リボーンにそれを止める理由は無い。 「興味本位で動くな。お前は何でも首を突っ込む悪い癖があるぞ、自分の立場を弁えろ」 でも、リボーンは咎める事だけは忘れなかった。ボンゴレ十代目という立場である限り、誰にでも簡単に面会を許すわけにはいかないのだ。 「忠告感謝するよ、でもオレは大丈夫だから。それより、ランボのことは頼んだからね。ちゃんと面倒見てよ?」 綱吉は散々注意を繰り返す。ランボが再度警察に保護されては困るのだ。 「言われなくても、ちゃんと躾けてやるぞ」 リボーンがそう言うと、ランボが「躾ってなんだよ!」と不満そうに食って掛かる。 だが、リボーンはそれを無視して執務室を出て行く。 そんなリボーンをランボは焦って追い駆けようとしたが、執務室を出る前に「有り難うございました!」と綱吉に礼をする事を忘れなかった。 こうして慌しく執務室を出て行ったリボーンとランボ。 その二人を苦笑混じりに見送った綱吉は、リボーンの暴言は心配だが取り敢えずランボが警察に保護される事はないだろう、と安堵したのだった。 執務室を出たランボは、先に出て行ったリボーンを追い駆けた。 幸いにも直ぐにリボーンに追いつくことが出来たが、リボーンはまるでランボなどそこにいないかのように無視をする。 「ちょっと待ってよ! ボンゴレに面倒見るようにって言われただろ?!」 「好きで見る訳じゃねぇ。それに少しでも俺の生活を乱してみろ、お前の大好きな銃弾を頭の中にぶち込んでやるぞ」 脅すような口調で言われ、ランボは「なんだよそれ……」と少し怯えてしまう。 三日前の海で一方的に見ていた時も、リボーンが纏っていた雰囲気から優しい人じゃないかもしれない……と予想はしていたが、こうして会ってみて改めて思う。予想以上に怖い人だ。でも。 「でも、オレが人魚だってことは信じてよ! 嘘じゃないもん!」 でも、ランボはこの主張だけは止めなかった。 今は人間の姿をしていても実際ランボは人魚であるし、嘘吐きだと思われるなんて心外だったのだ。 だからランボは廊下で歩きながらも、何度も「オレは本当に人魚なんだって!」と喚くように主張を繰り返した。 リボーンの方は、主張が繰り返される毎に機嫌が降下していくが、それでも無視を続けていたのだ。 こうしてしばらく廊下を歩いていたが、ふと、先ほど執務室を訪れた部下と一緒に見慣れぬ老人が前から歩いてきた。老人は白髪の痩せた男で、リボーンも初めて見る男である。恐らく、綱吉に面会を願ったのはあの老人なのだろう。 だが、廊下で人と擦れ違う事は珍しい事ではない為、リボーンが気にする事はない。ランボなどは自分が人魚であると主張するのに必死で、前方から歩いてくる老人に気付いてもいないようである。 そう、これは日常の中で頻繁に起こる擦れ違いの一瞬だった。 この時も、リボーンとランボ、そして老人が擦れ違っただけの事なのだ。 只の擦れ違いを一々気にかける者など少なく、擦れ違う最中も、ランボは「オレは人魚だ!」と主張するがリボーンに相手にされていなかった。 だから、二人は気付かなかった。 ランボの「人魚」という主張に、老人の表情が一瞬だけ変わった事を。 擦れ違った後、老人が一瞬だけランボを振り返った事を 。 ボンゴレ屋敷を出ると、リボーンは助手席にランボを乗せて車を発進させた。 ランボは二度目の乗車体験に「動いてる動いてるっ」とまたしてもはしゃぐが、直ぐに「はしゃいでる場合じゃなかった」と我に返った。 そしてハンドルを握るリボーンを睨み、自分の言葉を信じてくれない事に不満を訴える。 「どうして信じてくれないんだよ! 人間の世界って、そんなに人魚が珍しいの?!」 「珍しいも何も、そんなのを信じるのはガキくらいだ。人魚はジュゴンの見間違いだってのが定説だろ」 「ジュゴン……」 人魚とジュゴンを見間違えたと聞いて、ランボは何だか複雑な心境になってしまった。 ジュゴンとは、海洋生物の一種で体長は二メートル以上にも及ぶ生き物である。好奇心旺盛だがおとなしい性格をしており、丸々とした身体につぶらな瞳が愛らしい生き物だ。 だが、「ジュゴンに似ている」などと言われて喜べる者などいるだろうか。ランボは人魚の時に懐っこいジュゴンと一緒に泳いだ事もあり、ジュゴンは好きだが似ていると言われれば複雑である。 「人間の大人は人魚をジュゴンだと思ってるわけ? リボーンもそう思ってる?」 「ジュゴンの見間違いかは知らないが、人魚なんていないと思っている」 リボーンにはっきりと言い切られ、ランボは少し残念な気持ちになってしまった。 人間が人魚を信じていなくても、リボーンにだけは信じて欲しいと思ってしまったのだ。 どうしてそう思ってしまうのか分からないが、ランボの言葉を信じてくれない事を残念だと思った。 ランボは少し落ち込み、沈んだ表情で俯いてしまう。 だが、そんなランボにリボーンの言葉は続けられる。 「大多数は人魚を信じていないが、信じている大人がいたとしたら性質が悪いぞ」 「……どうしてだよ」 「もし人魚だとばれれば、実験台にされて殺される」 低い声色で脅すように言われ、ランボはビクリと肩を震わせた。 「実験台……っ、オレ、殺されるの?!」 実験台がどういう意味なのかよく分かっていないが、ランボは「殺される」という言葉からあまり良くない意味だという事は分かった。 ランボは焦った様子で運転席のリボーンを見つめる。 リボーンを見つめるランボの表情は真っ青で、今にも泣いてしまいそうな瞳は恐怖の色が滲んでいた。 そんなランボの様子に、リボーンは口元に薄い笑みを刻む。 「ああ、だから本当に人魚なら黙ってろ。人魚だと宣伝して歩くな」 これはお前の為だぞ? と優しい声色を装ってリボーンはそう言ったが、当然リボーンが人魚を信じた筈がない。 リボーンはランボの言葉を嘘だと思っているし、人魚主張を迷惑だと思っている。そもそも人魚など存在する筈がないと、リボーンは思っているのだ。 だが、これ以上「オレは人魚だ」と喚かれるのは勘弁してほしかった。 しかも今は車の中であり、煩く喚かれては堪らないのだ。 しかし、そんなリボーンの本音を知ってか知らずか、ランボは「……分かった。これからは内緒にしとくよ」と神妙な様子で重く頷いたのだった。 続く 長かったので二つに分けました。 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